大神宮

大村市大里町106(平成24年8月17日)

東経129度59分52.56秒、北緯32度52分57.85秒に鎮座。

 この神社は鈴田小学校の南南東約約500mに鎮座しています。神社は小高い場所に鎮座し、遠くから大きな森が良く見えます。社地前面には石垣の上に土塀が造られ、数段の石段を上がると古い灯篭と鳥居が建立されています。鳥居を潜り抜けるとその後は約70段の急な石段登り。息があがった頃に二の鳥居が建立されている境内の入口に辿り着きます。ここからは眼前に鈴田地区やなだらかな山々が見渡せ、息を整えるまで暫しの休憩。
 周囲は木々が生い茂る森ですが、境内は明るく切り開かれ、正面中央に入母屋造りの拝殿、奥の木塀内に本殿、左側に参集殿が建立されています。又、境内社も二社祀られています。

 御祭神:天照皇大神
 祭礼日:10月17日
 境内社:二社
 由緒:村社(「長崎県神社庁公式サイト」より)
 現在、大神宮が建っている場所には江戸時代古松権現という神社があり、藩主大村純信に再興された神社です。明治になり、他の神社とあわせて大神宮となりました。(社頭案内板『旧長崎街道』より)

 大村市教育委員会による案内板『旧長崎街道』より
 長崎街道は、小倉から長崎に至る五十七里(250km)の江戸時代の幹線道路で、脇街道ながら、江戸と長崎を結ぶ貴重な道路でした。
 江戸時代、長崎は幕府の鎖国令のもと唯一海外に開かれた港であり、オランダや中国との貿易を行う場所でした。この貿易によってもたらされた情報や物品は、江戸時代においては大変貴重なものであり、これらの海外の文化にいち早く触れようとして学者や商人などが長崎に向かい大変賑わいました。長崎港に上がった物資は、大坂、京都、そして江戸へとこの街道を伝わっていき、また、オランダ商館長などの異国人が江戸との往来に利用しました。このように、長崎街道は、将に異国文化と江戸を結んだ道であり、江戸時代の文化・経済等に大きく関与しました。
 この街道を通った人物には、オランダ商館の医師シーボルトや蘭学者で絵師でもある司馬江漢、歴史学者頼山陽などがおり、これらの学者や文人たちが長崎往来の記録を残しており、その中に当時の大村も描かれています。
 この付近は、休憩所があった場所で、往来の人々が足を休めました。現在、大神宮が建っている場所には江戸時代古松権現という神社があり、藩主大村純信に再興された神社です。明治になり、他の神社とあわせて大神宮となりました。
 ここから城下へと続く道は、鈴田川沿から武家屋敷の脇を通っていきますが、この大神宮前から国道までの間の道は住宅が建ち現在では無くなっています。また、ここから諫早藩ヘと越えていく山道は、当時の景観が極めて良く残っている場所として、文化庁により「歴史の道百選」に選ばれています。

社頭
神社入口
入口に立つ一の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
石段参道
境内入口に続く石段参道
境内入口に立つ二の鳥居
(場所が狭く一回では撮れないので、二枚の写真を合成しました。)
境内の様子
入母屋造りの拝殿
拝殿内の様子
流造の本殿
参集殿

境内社 磐座
石祠 忠魂碑
ご神木
拝殿前から入口を振り返る