昊天宮

大村市宮小路2-537-1 (令和4年1月6日)

東経129度56分52.63秒、北緯32度56分47.34秒に鎮座。

この神社は、JR大村線・竹松駅の北北西1.3km程の辺り、宮小路の街中に鎮座しております。

御祭神 伊弉諾命・伊弉冉命・瓊瓊杵命・木花咲耶姫命・鵜葺草葺不合命・玉依姫命

由緒
今から二千年程前(弥生時代)、郡川流域の平野に文化を築いた時代があり、その当時の豪族が一門の氏神として、祖神をお祀りしたのがこの昊天宮です。
その頃は肥前国彼杵郡(現在の東彼杵郡・西彼杵郡・大村市)と呼ばれ、この地域の総鎮守で現在の沖田町付近にあったといいます。
ご神体は、和銅5年(712年 奈良時代初期)、行基菩薩が郡岳(標高826m)の聖域で謹製奉納したと記されてあります。
永観2年(984年 平安時代初期)大村家初代領主直純公着任以来、大村家の守護神として御崇敬深く、社殿も華麗広大で郡内はおろか他郡からも老若男女の参詣者群をなし、お祭りも流鏑馬等の神事もあり、大変賑やかであったといいます。
文明6年12月(1474年 室町時代中頃)、大村純伊公は、萱瀬の中岳で有馬氏との戦いに敗れ、日夜、昊天宮に御祈願になり、千日間参拝の誓いを立てたところ「伊勢参宮せよ。」との霊夢を得て参拝の途次、有力な援助者渋江公勢が現れ大勝利となり、文明12年8月(1480年)御帰領できたのであります。そこで、朝夕戦勝を祈願している昊天宮に詣で喜びの奉告を行い、境内に陣地を敷いて敵の夜襲に備えたところ、それを聞いた宮小路・黒丸・沖田等の領民たちが大喜びで駆け寄り、領主のたくましく成長された姿を見て嬉し涙の中に作った食事が、今の大村の「おし寿司」で昊天宮が発祥の地であります。
ここに昊天大神の御神徳を尊び感ぜられ、祭祀の礼厚く社殿の造営・神田の寄進数町等、彼杵群総鎮守としての神社の面目を一新されました。
その後、大村純忠公のキリシタン政策により、天正2年(1574年 安土桃山時代)大村領内の寺社と共に、当宮も焼き討ちにあいました。この時御神体は、事前に阿金法印により嬉野に遷されましたが、慶長7年(1602年)大村喜前公による再建時に、もともと昊天宮の御旅所であった現在の境内地にお戻りになりました。再興後の当宮は、大村藩総鎮守として、また大村藩主の直祭社として、開運・旗揚げ・安産・厄除け・旅行の守護神として崇敬特に厚く、祭礼には大村藩内48ヶ村の村により、氏子・崇敬者、群をなせりと記してあります。
明治になりまして廃藩置県後は郡村ににて奉斎しておりましたが明治22年4月、町村が規制されてからは竹松村のみにて奉仕して参りましたので、地名を以って竹松神社と称していましたのを昭和36年9月、大昔の通り昊天宮と改名し今日に至っております。
境内由緒書き より。

神社入口

境内

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿

本殿覆屋


縦長の台座に乗る一体だけの狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

祖霊社

昊天稲荷神社

古御殿

桃の大石神

石の随身様

御神木