熊野神社

壱岐市勝本町立石南触583-1 (令和5年3月30日)

東経129度41分12.03秒、北緯33度47分45.41秒に鎮座。

この神社は、壱岐市役所の北7km程の辺り、勝本町立石南触の街外れに鎮座しております。

御祭神 伊弉那尊・素戔嗚尊・事解男神・速玉男神

由緒
1. 「壱岐国続風土記」によると、当社は紀伊熊野大神と同体であり、遠い昔、本宮和泉守橘貞兼が熊野より当社に迎えられ、その後立石村の産土神(氏神)となっている。
1. むかし、熊野大神が足海(タルミ)海岸に漂着されたのを、橘貞兼が心身を清め迎えたとされる。刈田院新田に東には大神が腰かけたと伝わる「権現石」がある。
1. 「壱岐国神名考」によると、現在の湯の本地域は昔から海辺に温泉が湧いていたため「アタミ」とも呼ばれたそうであるが、この地に鎮座する当社もまた「湯屋権現」と親しまれた。
1. 壱岐名勝図誌」によると、橘貞金は、神功皇后の新羅出兵に服す際、紀伊国の熊野大神に祈り成果をあげ、帰朝後、当地に熊野権現を奉斎、祠官を司ったと記録される。
1. 片苗湾近くの丘にあった布代(ふしろ)城主が勧請し奉ったとも、上川の立石氏が勧請したともいわれる。
1. 聖武天皇7年・天平3年(731)、遣唐使の多治比広成(たじひのひろなり)が官命によって勧請したともいわれる。
1. 当社(随身門)の左右に安置される矢大臣にある銘には、文明9年(1477)、「願主同作者橘頼兼」とある。頼兼は、貞兼、忠兼、、正兼等の末裔で、当社の社務に関わった人物と考えられる。
*延宝4年(1676)に平戸藩主の命により壱岐国式内社の調査や壱州神楽の完成にあたった橘三喜(みつよし)は橘神道を創唱した著名な神道国学者で、熊野神社神主の立石刑部橘廣貞の次男である。当社境内には橘廣貞の近親六柱の霊璽(ミタマシロ*れいじ)である立花社が祀られる。
1. 寛文2年(1625)、神職の長でもある鎮信公と堤主馬の(刑部卿の弟)により御宝殿を造営。
1. 正保4年(1647)、願主の肥前守天祥公松浦鎮信と神主の立石刑部橘廣貞により御殿を造営。
1. 元禄2年(1689)、祠官の神坂(堤)主水により大鳥居を建設。
1. 天保15年(1844)、長谷川栄左ヱ門により鳥居献納。・・・・・・・
境内由緒書き より

参道入口

参道途中の御旅所

鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿

本殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(弘化2年(1845)乙巳8月吉日建立)


末社

石祠