御頭御社宮司(おとうみしゃぐち)

諏訪市中洲上金子 (平成22年8月28日)

東経138度7分32.35秒、北緯36度0分2.03秒に鎮座。

この神社は中央自動車道諏訪ICから西に300メートル位、殆ど高速道の直下と言っていい場所に鎮座しています。今ではほんの小さな神社ですが、由緒によると昔は財力も広大な耕地も持っていた、この地域の中心としての役割を果たしてきた神社だそうです。

御頭御社宮司(おとうみしゃぐち)社(南方北方合祀)
社格は村社、諏訪大社の摂社(明治十一年十月内務省指定)
祭神は御社宮司神、諏訪大社建御名方富命御子神合祀。
鎮座年月は室町時代より遠く上代で諏訪神社御頭神役を勤める。江戸初期慶長十九年、高島藩主諏訪頼水は、諏訪郡を十五の親郷に区分し、各親郷に枝郷を附属し、十五年に一度諏訪神社に勤仕する制度を定める。上金子郷に限り、親郷として十五年に二度勤仕する事を規則とする。社殿は上代より、慣例により御頭番の節八年毎に改築する。又古来より境外所有地二反四畝余の作得収入を祭典、営繕費に充てる。
以上明治二十八年六月十三日付の古社取調上申書の要約である。(注)御頭とは当番のこと。
御社宮司神は御左口ノ神、御作事ノ神とも云い、自然信仰に基づく稲、土地の神として崇められてきた。この神を祀るのは大変古くから拓かれた村である事を物語っている。
諏訪大社の祭神建御名方富命と云う人格神が祀られたのは七世紀初頭である。
室町時代以降、戦乱が続き、諏訪大社への御頭奉仕が乱れており、慶長十九年(1614)高島藩初代藩主諏訪頼水は、神使御頭役を新たに諏訪郡を一五郷に分けて親郷とし、他の村々を枝郷として配属し御頭役を勤めるように定めた。上金子郷は一五郷一巡のうちに二回親郷として御頭役を勤め、南方北方両御社宮司社が交互に奉仕した。故に当村には南方、北方の御頭御社宮司社が存在していた訳である。これは広大な耕地と大きな財力があった証である。明治維新後、南方に統合された。・・・・
境内由緒書より。全文はこちら。

神社入口

押し寄せる宅地化で鳥居の前は、隣の民家となっています。

拝殿

拝殿と本殿

石碑

不明