本御射山(もとみさやま)神社

諏訪市四賀霧ヶ峰 (平成29年8月13日)

東経138度10分32.40秒、北緯36度06分31.20秒に鎮座。

この神社は、八島湿原の南東外れ、湿原が途切れる斜面に鎮座しております。

旧御射山史跡
平安時代から鎌倉・室町と経て元禄時代まで続いた諏訪大社下社の祭祀のあとである。この祭祀には各地の代人たちが騎射を競い、周囲の階段状の地形はその時の桟敷あとといわれ県の史跡に指定されている。

霧ヶ峰一帯は旧石器時代の遺跡が多く、また国内有数の黒曜石の産地です。ここは旧御射山といい、諏訪神社下社大祝金刺氏の禁猟地で、太古から御射山祭が行われた所です。
鎌倉、室町時代は信濃武士、鎌倉武士が参加する全国的な大祭として盛大でした。『諏方大明神画詞』から、中世の下社御射山祭を想い描いてみましょう。
旧暦7月26日、大祝、神官、社人、御頭役(祭の当番)一行が山に登り、尾花(ススキ)で葺いた穂屋に五日間籠りました。周囲に見える人工の土壇は、穂屋の敷地跡です。別名穂屋祭りと言われる由縁です。
この頃ちょうど二百十日に当るので、風雨を鎮め五穀豊穣を祈るため狩猟を行い、その幸を山宮の神に供えました。この間奉幣、狩猟、饗膳(神と人が相嘗する式)があり、29日の矢抜き儀には鹿を射止めた者に、尾花を添えた尖矢が授けられました。
参集の武将たちは小笠懸、相撲、草鹿、武射、揚馬など競い馬乗に秀でた諏訪の武士は名声をあげ人々の心を引き付けました。また鎌倉幕府の篤い崇敬により諏訪神の武神としての信仰が確立したといわれています。
諸国から白拍子、田楽、巫女、呪師などが山に群集し、祭場は里のような賑わいであったと和歌にも詠まれています。この祭りを機縁に諏訪神が広く勧請されていきました。各地の諏訪神社の多くが27日を祭日としているのも故あることです。
江戸時代の中頃、御射山の祭場は秋宮近くの山中に遷され、以来旧御射山は遺跡地となりました。ここに鎮まる石祠を「本御射山神社」といい、建御名方神をお祀りしております。
付近には清水が湧き、風そよぐススキは秋の稔りをほうふつさせます。旧御射山は諏訪大社下社の山宮、水霊の籠るお山であり、諏訪信仰の原点です。
尾花ふく穂屋のめぐりのひとむらに しばし里あり秋の御射山 下社大祝、金刺盛久
ススキ箸 見たばかりでも 涼しいぞ 小林一茶
雪散るや 穂屋のススキの 刈り残し 松尾芭蕉
境内由緒書き より

神社入口

すぐに小川を渡ります

全景

御柱が立つ境内

石祠


八島湿原

八島湿原に咲く花