本学神社

下伊那郡高森町山吹2919 (平成23年9月10日)

東経137度52分36.5秒、北緯35度34分32.62秒に鎮座。

この神社は、中央高速・松川ICの南3km程の辺り、中央高速の西側に伸びる尾根の小さなピークに鎮座しております。駐車場あり、の案内に従い車を走らせると途中からは未舗装の林道気分です。勿論回りに人家は無く、人里離れた山中といった静かな雰囲気となっております。山中にもかかわらず境内は掃除が行き届き、氏子さん達の苦労がしのばれます。

御祭神・・・・・国学の四大人
荷田春満大人(かだのあずままろ)・賀茂真淵大人(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)・平田篤胤(ひらたあつたね)

伊那谷は早くから和歌の盛んな地で、国学研究の土台があった。歴代山吹藩座光寺氏は文運興隆に力を注ぎ、特に片桐春一を中心とした義雄集の読書会が開かれ、平田没後門人は古神道の研究に没頭し、遂に四大人の霊代の寄贈を受けて、社殿造営の実現に努めた。心労奔走の結果、事業は軌道にのり、社号も鉄胤により『本学神社』と命名された。慶応三年三月二十四日、全国各地から門人同志を」迎え盛大な遷宮式を挙げた。・・・
高森町教育委員会 原文はこちら。

島崎藤村の『夜明け前(第一部・下)』にも登場するこの神社は藤村ファンの間では結構知られている神社のようです。それにしても、こんな山の中に造ったのは、幕府への遠慮でもあったのでしょうか。

新しい社(やしろ)を建てる。荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代(みたましろ)を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山(じょうざん)(俗に小枝山(こえだやま)とも)の位置をえらび、九畝歩(せぶ)ばかりの土地を山の持ち主から譲り受け、枝ぶりのおもしろい松の林の中にその新しい神社を創立する。
 この楽しい考えが、平田門人片桐春一を中心にする山吹社中に起こったことは、何よりもまず半蔵らをよろこばせた。独立した山の上に建てらるべき木造の建築。四人の翁を祭るための新しい社殿。それは平田の諸門人にとって郷土後進にも伝うべきよき記念事業であり、彼らが心から要求する復古と再生との夢の象徴である。なぜかなら、より明るい世界への啓示を彼らに与え、健全な国民性の古代に発見せらるることを彼らに教えたのも、そういう四人の翁の大きな功績であるからで。
 その日、山吹社中の重立ったものが飯田にある有志の家に来て、そこに集まった同門の人たちに賛助を求めた。景蔵はじめ、香蔵、半蔵のように半ば客分のかたちでそこに出席したものまで、この記念の創立事業に異議のあろうはずもない。山吹から来た門人らの説明によると、これは片桐春一が畢生(ひっせい)の事業の一つとしたい考えで、社地の選定、松林の譲り受け、社殿の造営工事の監督等は一切山吹社中で引き受ける。これを条山神社とすべきか、条山霊社とすべきか、あるいは国学霊社とすべきかはまだ決定しない。その社号は師平田鉄胤(かねたね)の意見によって決定することにしたい。なお、四大人の御霊代(みたましろ)としては、先人の遺物を全部平田家から仰ぐつもりであるとの話で、片桐春一ははたから見ても涙ぐましいほどの熱心さでこの創立事業に着手しているとのことであった。
青空文庫 より

平田篤胤の説く平田国学の研究に没入した山吹藩家老片桐春一ら山吹(高森町山吹)の平田門人は、研究だけでなく古神道を信奉するようになり、やがて国学四大人を祀る神社の建設を計画した。社地を山吹條山の山頂に決定し、四大人遺愛の品をそれぞれ宗家に懇請して譲り受け、慶応3年正月に社殿造営にとりかかり、同3年3月24日に遷宮式をおこなった。
国学四大人とは、荷田春満・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤である。宗家から譲り受けた御霊代は、荷田は円鏡1面と「荷田東麿信盛宿弥命」の御笏一●、賀茂は短刀1口と「県居翁霊爾」、本居は鈴1箇と「秋津彦豆桜根大人」、平田は水晶玉1箇と瑠璃玉9箇と、他に太陽石と鉱石である。
 本学神社は、社号を平田篤胤によって「本学霊社」と名づけられたが、いつしか「本学神社」とよぶようになった。この社殿建設事業には、平田門人の座光寺(飯田市)北原信質(稲雄)をはじめ広く伊那谷門人が協力した。
飯田市美術博物館

参道入口

社号標と参道。現在この参道は殆ど使われていないようです。

参道

鳥居

境内入口

境内

拝殿

社額と御祭神

本殿覆屋

本殿

絵馬