信濃宮神社

下伊那郡大鹿村大河原上蔵 (平成28年5月14日)

東経138度03分42.14秒、北緯35度32分45.89秒に鎮座。

この神社は、秋葉街道地蔵峠の北北西10km程の辺り、大河原上蔵の街外れ山中に鎮座しております。

御祭神 称信濃宮 宗良親王

由緒
宗良親王は応長元年(1311)の御生誕にて御幼少から仏門に入り天台教学を研修し、称号を妙法院宮尊澄法親王という。20歳にして天台座主に補せられ、比叡山延暦寺に在りて 御父後醍醐天皇討幕の偉業に参画し、建武の親政を実現したが、程なく足利氏の反により南北朝の動乱となり、法親王は東国南朝方勢力拡充の重任を帯び、還俗して宗良親王と改称し、以来各地に御奔走の上、信濃に入られて大河原を根拠地とし、香坂高宗らの誠忠に依り、東西に御活躍あり、因って世上信濃宮と称す。しかれども南朝方は諸勢力利あらず日々に減衰せり。親王御詠に
「いわでおもう谷の心のくるしきは 身を埋木とすぐすなりけり」「谷深き雪の埋木まてしばし あわではつべき春ならなくに」
と痛恨の極みなり。
元中二年(1385)親王は大河原にて薨御せられた。村人は永く供養を続け崇敬し今日に至っている。
親王は兵馬倥偬の間にあって、「梨花集」の御編纂、「新葉和歌集」の御撰進をなされた、南北朝第一の歌聖である。

神社の造営
時に昭和15年(1940)皇紀2600年を迎え、長野県は記念事業として信濃宮神社造営を企画し、鎮座地を大河原上蔵に定めた。時恰も戦時下なり、国民精神高揚のためとして、国民学校以上全学徒の献金があり、青年は土木勤労奉仕を勤め、社地の造成をしたが、昭和20年(1945)8月終戦後は、民間の奉賛会が造営に当たり、神社の規模を縮小して本殿のみ建立し、同23年(1948)11月3日鎮座奉祝祭を挙げた。
境内由緒書き より。

境内より150m程西の参道入口

入口脇の歌碑「谷深き雪の埋木まてしばし あわではつべき春ならなくに」

参道

境内

社殿