浪合神社

下伊那郡阿智村浪合宮ヶ原581(平成23年4月30日)

東経137度41分40.83秒、北緯35度22分31.07秒に鎮座。

 この神社の入口は阿智村立浪合小学校脇の243号線沿いにあり、そこから殆ど真北に約600m、直登の長い石段登りを経て、三基の鳥居を潜り、長い杉並木の参道を歩いて、やっと境内に辿り着きます。
 境内入口には四の鳥居が建立され、尹良親王供養塔のほか、宮内大臣渡辺千秋による「尹良親王御旧跡の碑」や、親王の事蹟調査のために明治天皇の勅使として藤原公業が当地を訪れたことを記念する「勅使参向の碑」などがあります。尹良親王の御首を埋めたとされる墓所は境内の西側に位置しており、明治14年(1881)になって正式に親王墓と比定されたため、宮内庁の管理地として立ち入りが制限されています。
 上の境内には妻入りの拝殿と入母屋造の本殿、神饌殿が建立され、周囲には境内社が点在しています。

 御祭神:尹良親王、八幡大神、諏訪大明神
 祭礼日:4月24日、10月24日
 境内社:5社
 由緒:この正面約600m上がったところに浪合神社があります。
 ご祭神は、後醍醐天皇の皇子宗良親王第二皇子尹良親王です。御母は伊那城(現静岡県引佐町)城主井伊介道政の娘です。
 親王は南北朝(1336〜1392)動乱の時代、南朝勢力の挽回に奔走されましたが、応永31年(1424)8月上野国(いまの群馬県)から三河国に赴くためこの地にさしかかった時、北朝方の土賊に襲われ戦死されたと伝えられています。神社手前左側の丘には、親王の御首を埋め奉ったといわれる宮内庁所轄の御墓があります。神社は今から約320年前延宝年間に造営されたものと推定されます。境内には老杉巨樹を擁して神殿拝殿をはじめ、明治天皇の勅使として派遣された藤原公業卿の勅使参向の碑などが、また付近には親王と共に戦死した新田一族を葬った陪塚(宮内庁所轄で三箇所)、日本剣道の始祖といわれる慈念の長福寺、墓(通称「念墓」)、公園があります。
 例祭は4月24日と10月24日春秋2回で応永甲辰囃、念流太鼓などの伝統芸能が賑やかに繰り広げられ、村をあげての年中行事となっています。
 明治42年、村内にあった八幡社と諏訪社を合祀しています。

243号線沿いにある参道入口
参道入口に立つ一の明神鳥居
急登の石段参道
急登の石段参道上に立つ二の台輪鳥居と狛犬
台地上の平坦な参道
神橋 水鉢
参道周囲に植樹されている桜の木々
日露戦役祈念碑 「一心流 鎖鎌術発祥之聖地」碑
参道の様子
杉並木の参道遠景
杉並木の参道前に立つ三の台輪鳥居 鳥居に掛かる額
杉並木の参道
道路を挟んだ続きの杉並木参道入口
杉並木の参道奥に、やっと境内の入口が見えてきました。
境内入口
境内入口に立つ四の台輪鳥居
下の境内の様子
尹良親王御旧跡
尹良親王慰霊塔
社務所
上の境内入口
上の境内の様子
拝殿
本殿
神饌殿
勅使参向の碑
境内社 境内社
境内社 境内社
鎮守の杜