大町市大町2097 (平成18年10月15日)
この神社は【狛犬情報・ジンジャーさん】からのお薦め神社です。コメントで「若一王子神社は、十二支彫刻の三重塔や藁葺きの観音堂もある神社です。珍しい子供による流鏑馬神事もあります。」と教えて頂きました。
大糸線・北大町駅の西南西約450m、新旧の148号線に挟まれた大町市街地の北部地域に鎮座しています。流石別表神社らしく、遠くからでも県の天然記念物となっているスギ、ヒノキ主体の鎮守の杜が、黒々としたシルエットを見せています。かなり手前の道路上には、大きな一の鳥居が建ち、社号標には「別表神社」の文字が見えます。境内入口の朱の鳥居を潜ると、右手に県宝・三重塔がその優雅な姿を見せ、正面には立派な拝殿と市指定有形文化財・茅葺の観音堂が和様建築の粋を見せてくれています。その奥には重文の桧皮葺春日造本殿が優雅で華麗な佇まいを見せ、妻には赤鬼が、縁には優しい面立ちで逞しい体つきをしている木像神殿狛犬までいました。
案内板には「御祭神:伊弉冉尊、二品王、若一王子、妹耶姫(いもやひめ)
由緒:垂仁天皇の御代、二品王がこの地の守りとなり、自らこの地に社を建て伊弉冉尊を奉祀しました。のちに当地の人がこの地創始の神として二品王と妹耶姫を合祀し、嘉祥2年(849)に創建されたと伝えられています。
以来この地を治めた仁科氏によって、累代社殿の修復が行なわれ、仁科次郎盛遠宿禰は大町守護のため、熊野権現(那智大社)より、第五殿に祀る若一王子を勧請し、これより「若一王子の宮」と称される様になりました。現在の本殿は仁科盛康によって造営され、江戸初期の承応3年(1654)水野出羽守により社殿の大修復が行われ、その後も代々の松本城主の篤い崇敬を受け、穂高神社・仁科神明宮と共に仁科の三大社と称せられてきました。維新の際現社名に改め、昭和6年県社に昇格、昭和51年神社本庁別表神社に指定されました。
例祭日:例祭7月29日、流鏑馬神事(県無形文化財)7月29日、舞台行事7月29日、稚児行列7月28日、万灯祭6月30日と7月1日
」とあります。
県指定無形文化財の流鏑馬神事は、7月29日に執り行われる神事で、日本三大流鏑馬として知られています。7〜8才の化粧をした男子が狩衣の装束をつけ、飾りつけた馬に乗り、参道奥の馬場に設けた的に向かって3回廻った後、3回弓に矢をつがえて射ち、後3回は矢先を的板に近づけて当てます。それが済んだ後昇殿して参拝するのです。元々この神事は農作の豊凶を占う為に行われていたものが、中世以降、武家の間に盛んになった「流鏑馬」の形をとり入れたものと考えられているそうです。
社号標「別表神社 若一王子神社」 | 一般道に建つ大きな一の台輪鳥居 |
境内入口の朱の両部鳥居 | |
境内の佇まいと宝永8年(1711)建立の県宝・三重塔 木食信法阿の勧進で、松本平唯一の優雅な三重塔です。 柿葺の屋根が葺かれ、蛙股には人身獣面の十二支の彫刻が施されています。 |
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入口にいるしょうわ狛犬 | |
『ヨッシーの神社豆辞典』
別表神社とは「第二次大戦後、公的な社格の制度が廃止されたため、それに代わるものとして神社本庁が包括している、有力神社の一部を別表神社として定めました。一部の規模の大きな神社については、神職の進退等に関して一般神社と同じ扱いをすると不都合があることから、「役職員進退に関する規程」において特別な扱いをすることと定めています。その対象となる神社が同規程の別表に記載されていることから、「別表に掲げる神社」(別表神社)と呼ばれるのです。従って、別表神社は社格のような神社の格付けではなく、あくまでも神職の人事のみにかかわる区別ですが、別表に掲げられている神社は社殿、境内、神職の数などの面で比較的大きな規模の神社で、一般には一種の格付けとして捉えられています。別表神社には、神社本庁配下の旧官国幣社が全て含まれるほか、指定護国神社・旧府県社などの一部が含まれています。」(フリー百科事典『ウィキペディア』参照)