健御名方富命彦神別神社

長野市箱清水1(平成19年9月24日)

この神社は、善光寺の東400m程の辺りに鎮座しております。広い社地と豊かな緑を持つ気持ちの良い神社です。

社号標に式内・名神大と書かれています。由緒有る神社のようです。「たけみなかたとみのみことひこわけのじんじゃ」と読むようです。

神社のすぐ裏手は城山公園となっています。そそっかしい私はてっきり長野城跡に鎮座しているものと思いこんでしまいました。

嘗て善光寺の門前町であったこの地に藩は無く、江戸時代城は無かった筈です。遡ること、建武2年(1335)小笠原貞宗が守護としてここ横山城に居て、善光寺及び善光寺平の支配の拠点となっていたようです。当時の本丸跡が、現在の水内大社であったと言う。しかし式内社の健御名方富命彦神別神社は何処にあったのでしょうか。

信濃国水内郡9座の中に確かに載っています。しかし三つもあります。ここの他、飯山市豊田・上水内郡信州新町水内にあります。何時かこの場で紹介したいと思います。

社号標と神社入り口。

境内の様子。

招魂社系威張り狛犬が居りました。

(昭和8年(1933)5月建立)

拝殿。明治12年に「善光寺年神堂」を移築。

本殿。

木匠祖神社

城山県社水内大社の西境内に上世より末社として鎮座されてあられます木匠祖神社は明治十四年八月四日長野市内の工匠諸職の道祖神として祭祀されたお社で、祭神は手置帆負命・彦狭智命・聖徳太子の三柱です。
後、明治三十五年十一月に修理をなすも、戦後の祭典執行中止と合わせてお社の荒廃著しく昭和四十八年春秋の祭典時に復興新築御造営の志を得、翌昭和四十九年三月より解体、御造営事業が進められ同年九月の秋祭に正遷宮奉告祭が謹行され現在の神明造りの立派なお社に生れかわる。
川崎喜作
由緒書きより。

城山県社水内大社と言う呼び名もあるようです。

明治の神仏分離の時ここ善光寺も分離を命令されたようです。江戸時代毘沙門堂があったこの地に建物と共に御祭神も移されたようです。すると以前の水内大社の御祭神は?。

明治天皇駐蹕之処碑。本殿右手にあります。

明治二十四年の火災で焼失したのは佳郷館だけだったのでしょうか。