朝日神社

長野市鬼無里土倉(平成19年9月23日)

 この神社は鬼無里の西、西京地区で国道406号線から435号線に入り、約3.5km、裾花川を渡り一般道十字路奥の文珠堂上に鎮座しています。案内板には文珠堂の由来が書かれており、最後の二行がこの社の案内でした。

 御祭神:天思兼命、木曽義仲公
 由緒:この社の勧請年月・沿革等は不明です。
 文珠堂の縁由は、寿永2年(1183)、北陸進攻で鬼無里を通過した木曽義仲が、守仏の弘法太師作大聖知恵文珠菩薩像に一巻の軸をそえ、土倉薬師堂に合祀して武運を祈りました。仏の加護を受けた義仲は倶利伽羅峠の戦いなどに大勝利し、入京するや征夷大将軍に任じられて旭将軍と呼ばれました。しかし元暦元年(1184)源頼朝の軍が京へ攻め上り、義仲は栗津ケ原でこれを迎え討ちましたが、破れ、31歳の生涯を閉じました。この時、義仲に従っていた仁科城主・仁科盛遠が、義仲の第二子力寿丸を守って間道を抜け、仁科に戻りました。盛遠は頼朝から力寿九を隠すため、土倉に一堂を建てて隠棲させ、義仲の文珠菩薩像を堂に移し父の菩提を弔わせたと伝えられます。そして、仁科盛遠は力寿丸が元服すると自分の娘を娶らせ、信濃守義重と名乗らせて信濃源氏の跡目を継がせました。
 現在、土地の人は土倉文珠を京都の切戸文殊、奥羽の亀岡文殊と共に日本三大文珠の一つと呼びます。

文珠堂への石段 文珠堂
更に石段を上がると境内です。 市指定有形文化財の社殿
椿大神、二十三夜塔、馬頭観世音等