長野市松代町西条 (平成22年9月15日)
東経138度12分0.31秒、北緯36度33分14.16秒に鎮座。
この神社は、長野電鉄屋代線・松代駅の南1km程の辺り、象山の北東山麓に鎮座しております。傾斜地のやや高い所に建つ、神社の境内からは、松代の街並みが一望出来、大変眺めの良い神社です。
竹山随護稲荷神社の由来
この社はその昔、真田信親公(真田信之公・幸村公の弟昌親の子)が江戸(現在の東京)今井の屋敷内に鎮守として祭っていたものである。
信親公には子がなく、二代松代藩主真田信政公の長子、信就公の六男信弘公が養子となるが、三代藩主幸道公にも子がなかったため、信弘公は幸道公の養子となり宗家を継ぎ、四代藩主となる。
真田十万石の宗家を相続することになった元禄十六年(1703)江戸の屋敷内から海津城内に遷座し、鎮守として祭った。
享保八年三月(1723)ゆえあって幸道公の開基寺である恵明寺境内に遷座する。遷座建立された場所は、現在竹林となっていて、奥社として祭られている所である。(狐の穴)
八代藩主幸貫公の帰依篤く「正一位随護稲荷大明神」と称し、恵明寺が別当を司り、参詣人多く地方著名の社となる。
しかるに、下って明治四年(1871)維新改革の神仏分離令により別当引き離しとなり、神勤は中村神社神官に引渡しとなる。
本殿が現在地に建立されたのは明治の中頃とおもわれる。
現地由緒書より。原文はこちら。
神社遠景
参道入口に立つ一の鳥居と社号標
赤い鳥居が並ぶ参道
石段を登ると境内地のようで、左手に淡島神社。右手は社務所となっています。
淡島神社
参道
石段上の末社
拝殿
拝殿正面
拝殿遠景
本殿
松代の街並み。左手は皆神山。右手は舞鶴山。当神社のある象山と同じく大東亜戦争末期、松代大本営の為、地下壕が彫られた所です。
付近の石仏