沙田(いさごだ)神社

松本市島立3316 (令和3年8月6日)

東経137度56分43.83秒、北緯36度13分04.47秒に鎮座。

この神社は、松本電鉄上高地線・大庭駅の南700m程の辺り、島立の街中に鎮座しております。式内社、伝信濃国三宮で、旧社格は県社。神紋は「三階菱」。

御祭神 彦火火見尊・豊玉姫命・沙土煮命

由緒
社伝によると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現・松本市波田鷺沢)に鎮座していたという。そして大化5年(649年)6月28日、信濃国司が勅命を奉じ初めて勧請して創祀した。その後、大同年間(806年-810年)に坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐にあたって、本社の神力が効したとして国司と共に社殿を造営したと伝える。
以上の伝承から、当社は波田から流れ出る梓川の水霊を祀ることに始まったと見られ、鷺沢の旧跡地と伝わる地には当社の奥社が立っている。また、現在の本社は梓川の水を引き入れた古代条里的遺構の上にあり、当地開発当初からの古社であるとも推定されている。境内からは土器・石器のほか、古墳時代の鉄鍬、中世・近世の薙鎌が出土し、神宝とされている。

社伝によると、仁寿元年(851年)に勅評によって社の造営があり、仁寿3年(853年)には二条大納言有季を勅使として神位を賜ったともいう。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では信濃国筑摩郡に「沙田神社」と記載され、式内社に列している。なお、『日本三代実録』貞観9年(867年)3月11日条に載る「梓水神」を当社にあてる説もある。
鎌倉時代後期には、元亨(1321年-1323年)から正中(1324年-1325年)の戦火により社殿が焼失し、本社のみ残ったという。その後、島立右近が松本城を築くとともに、その産土神として当社を補修した。松本城主は代々当社を裏鬼門除けとして重視し、神領を寄進した。当社が松本城に向かって東面しているのは、その鎮護のためとされる。
また、当社は信濃国三宮と見られ古くから「三の宮」と呼ばれていたという。現在も地元には「産の宮」の呼称があり、安産の神としても崇められている。なお、安曇野市の穂高神社も三宮とされている。
明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列し、明治34年(1901年)には県社に昇格した。明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定された。
ウィキペディア より。

参道入口と一の鳥居

神額 社号標

参道

手水舎

二の鳥居

境内

舞殿

舞殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正14年(1925)9月建立)

拝殿

本殿


御子安神社と末社

末社

一之御柱と御神木