浅間(あさま)神社

北佐久郡軽井沢町追分(平成18年9月3日)

 この神社ははしなの鉄道・信濃追分駅の北西約1.2km、信濃追分宿の東端近く、追分宿郷土館隣に鎮座しています。神社の前に清流が流れ、緑豊かな森の中に、芭蕉の句碑や追分け発祥の地碑、室町時代の木造建築である本殿など、狛犬が居ない寂しさを感じさせない、充実したそして静かで落ち着いた神社でした。
 案内には「本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神の2神が祀られている。明治2年5月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。」と有ります。
 磐長姫神は大山祇神の娘で、木花開耶姫命の姉神にあたります。普通、「浅間神社」と書くと「せんげんじんじゃ」と読み、木花開耶姫命を御祭神とした富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社としていますが、ここは「あさまじんじゃ」と読み、磐長姫神を御祭神としています。
 「あさま」とは火山を示す古語とされ、富士山の神を祀る神社が浅間神社と呼ばれるのも同様の理由であり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばであると言われています。現在、浅間山は富士山の周辺や富士山が見える関東一円を中心に点在していますが、山頂から富士山が見える山を「浅間山」と命名したためといわれています。ここ軽井沢の浅間山も他の多くの山々と同じく、古代から信仰の対象となってきました。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)
 この神社の鎮座する追分宿は、浅間三宿(追分・沓掛・軽井沢)のひとつで、中山道と北国街道の分岐点にあり、昔から交通の要衝の地でした。江戸時代には中山道の大改修が行われ、参勤交代が実施される頃からは人馬の往来が激しくなり、元禄頃の記録には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒、その他5軒を数えるほどの大宿場となりました。慶長9年(1604)、全国の街道には一里塚が造られましたが、日本橋から40番目にあたる追分の一里塚は、中山道69次の内でも、道路をはさんで左右に塚があるという貴重なものが残っています。
 又、追分は文学的にも有名で、「風立ちぬ」の堀辰雄や、室生犀星、中村慎一郎、三好達治、野村英夫、津村信夫、今井慶松、河上徹太郎、嘉門安雄、深田久弥などが、旧本陣である油屋旅館を中心にして集まり、文学の花が咲いた所でもあります。
 7月下旬に行われる「信濃追分馬子唄道中」の日は、多くの観光客で賑わうそうですが、これは、追分に発祥し全国各地に伝えられたと言う「追分節・馬子唄」を、多くの方に親しんでもらいたいという考えで始まったもので、江戸時代の大名や旅人、馬に乗った白無垢の花嫁などに扮した人々が、追分宿を練り歩き、往時の追分宿の賑わいを再現しているのだそうです。

神社入口

神社の入口に流れる
御影用水
境内入口 芭蕉の句碑
「ふきとばす石も浅間の野分かな」
教育委員会の案内には、寛政5年(1793)の書で浅間焼石におおわれた追分原に野分吹くころの風情がしのばれる、と有ります。
拝殿 ご神木
本殿 末社二社
境内の様子 御嶽山座王大権現
お地蔵様 仏像?神像?