北安曇郡池田町会染十日市場(平成18年10月15日)
この神社は国道147号線安曇追分け駅東から329号線に入り、高瀬川を渡り約600mほどの左側に鎮座しています。池田町会染地区十日市場の産土神社ですが、329号線に建つ社号標には誇り高く「延喜式内 川會神社」の文字が見えます。500mも続く参道脇には、丁度季節柄お蕎麦の実がたわわになっていて、「そういえば昨日食べたあの美味しいお蕎麦も、こんな畑で採れた新蕎麦だったのかしら?」などと、至福の時を思い出しながらの参拝となりました。境内入口には真新しい石の両部鳥居が建ち、またもや「延喜式内 川會神社」の文字が見えます。安曇郡内には式内社が穂高神社とここ川會神社の二社しかありませんから、当然かも知れませんが…。赤松と杉の混合林で構成された鎮守の杜の中、境内は思いの外開けて明るく、その中央には立派な神楽殿が建っています。拝殿は横に広く荘厳な感じがし、本殿も大きく優雅です。境内社は纏められて屋根で保護され、小社といえどもとても大事に祀られているのが嬉しく思いました。全体の雰囲気は、式内社に相応しく由緒正しく格式高い神社ですが、親しみやすくもある、神域が大事に護られている、という感じのする神社でした。
来由書には「御祭神:底津綿津見命
景行天皇12年(82)草創で延喜式内社となっています。初めは高瀬川と農具川との落合に鎮座し川會神社と称していましたが、後世島ノ宮大明神とも呼ばれていました。大同年中(806〜810)には坂上田村麻呂が八面大王征伐の折りこの島ノ宮大明神に陣し、戦勝した暁に、お礼として社殿の改築をしました。その後は天永元年(1110)、6年後の永久3年に水災に見舞われ、社は古宮地籍に遷座され、その後戦闘により焼失、社記録や神宝は灰燼にきしました。江戸後期天明の頃には洪水により社地が流され、その後現在地に遷座されました。(抜粋)」と有ります。
川會神社は、川の氾濫を防ぎ、耕地や村落の荒廃を免れるために創始された神社ですが、水害により度々遷座されるという、まさに水との戦いに明け暮れた社となりました。
御祭神の底津綿津見命は安曇野市穂高神社の御祭神・穂高見命の父神にあたり、まさに安曇郡内の式内社二社は安曇族の祖神二柱をお祀りしている神社でした。