有明山社

北安曇郡松川村西原(平成18年10月14日)

 この神社は県道有明大町線沿いの安曇野ちひろ美術館やすずむし荘のすぐ近くに鎮座しています。
 大町北安曇地域で一番広い社地を持ち、松川村の板取・三軒家・神戸・南神戸・鼠穴・西原地区の産土神社です。
 御祭神:天鈿女命、天児屋根命、建御名方命、保食神
 由緒 :「信濃富士」と称される霊峰・有明山は神々の山であり、古来より里人達は山そのものを神として崇め、周辺の村々にはこの山の神を遙拝する「拝み」という場所が設けられていました。ここより南約800mに位置する「鳥居奴」と呼ばれる旧社地もその一つで、赤松林の中に忽然として大小数百もの石の山が現れる不思議な場所です。大同2年(807)坂上田村麻呂が八面大王を征伐した際、武運長久を祈願し宝剣を奉納した事が、江戸時代松本藩の編纂による「信府統記」に記されています。
 現在の里宮は寛永14年(1637)豪農・白澤惣兵衛からの広い社地の寄進により、鳥居奴より有明山をご神体として勧請、社を建立し、有明山大権現社として創祠しました。有明山山頂は北岳、中岳、南岳の三つのピークから成り、北岳には寛政2年(1790)にここ松川村の有明山社奥宮が建立され、中岳と南岳には穂高町の有明山神社奥宮の祠が祀られています。明治維新後は有明山社と改称し、同41年には、鼠穴と板取地区の諏訪社・桜沢稲荷社・板取春日社を合祀しました。
 例祭(9月第2日曜日)には2台の舞台が曳かれ、「花きざみ」と称される手作りの飾りが配られ、参拝客で賑わうそうです。
 「鳥居奴」からの遷座には謂われがあり、「とりいやっこの伝説」として今に残っています。
 『昔ぁし、むかし。川西にでっかいスモモの木があって、その下に李の総部兵衛(すもものそうべえ)という人が住んでいたそうな。ある時、南の方まで用事にでかけて、その帰り、白い岩がるいるいと積み重なっている「とりやっこ」というところまで来ると、急に眠たくなったので「陽気もいいし、一休みしてくか」と、石の上でうとうとと小半時もねむりほうけたのだそうな。
 そうして家に帰ったとたん、急に熱が出てきて、それっきり寝ついてどんな薬を飲んでも効き目はなく病気は日増しに重たくなってゆくばかり。そこで、ひょっとして、こりゃあ何かの祟りかも知れね、と易をみてもらったら「とりやっこ」の神様のおいでなさるところを汚した。その祟りだから、早くおわびをしなさい、と言われたのだそうな。そこで一族の衆とも計らって、さっそく、小さなお宮を作って有明さまをまつったら、病気はけろりとなおってしまったのだそうな。
 それから後、有明様は、今の有明山社の場所へおうつりなされたが、旧暦八月八日には村の衆が大勢「とりやっこ」さまへ集まって、はるか有明山を遥拝し、お神酒の盃受をしるのだそうな。』というものです。
 同名社でありながら、御祭神が、穂高有明の有明山神社が手力雄命、ここ松川村の有明山社が天鈿女命と、天照大神の岩戸隠れの功労者二人が平等に祀られているのが面白く思いました。

神社入口 境内から入口を振り返る
神楽殿 境内の様子
拝殿 本殿
境内社 境内社
纏められた境内社 明治期、木食で修行した「天明行者」像?