仁之倉神社

上水内郡信濃町柏原二之倉(平成19年9月23日)

 この神社は信越本線・黒姫駅の南西約1.5kmに鎮座しています。二之倉は俳人小林一茶の母の実家がある地域で、境内には「おらが春」最初の句碑が建立されていました。神社は欅や杉の鎮守の杜に護られた清々しい感じの境内で参道中央に建つ朱の両部鳥居は木々の緑の中良く映えていました。拝殿は大きく立派で、境内共々良く清掃され綺麗に保たれていました。周囲は一面の蕎麦畑で、美味しいお蕎麦が期待できそう…と思っていましたが、期待にそぐわず、この日頂いた2回のお蕎麦はどちらも腰があり美味でした。
 この社は旧村社、諏訪系なので御祭神は建御名方命でしょうが、残念ながら勧請年月・縁起・沿革等は全て不明です。例祭日は9月の中旬です。

社号標 神社入口
境内に建つ「おらが春」最初の句碑
「目出度さもちう位也おらが春」
 ここ二之倉には俳人小林一茶の母の実家がありました。一茶は、1763年(宝暦13年)柏原宿の小林弥五兵衛と二之倉の宮沢くにの長男に生まれ、本名を弥太郎といいました。母くには一茶が3歳のときになくなってしまい、一茶は15歳でふるさとを離れ、江戸に出て葛飾派の俳人になりました。30歳から6年余、俳句修行のため関西・四国・九州を廻りました。その後、再び江戸にもどり、夏目成美に師事し、房総地方などを巡回する漂泊の生活を続けました。
 父の遺言による遺産相続で、弟や継母と12年にわたって争うようになったとき、一茶を助けたのが宮沢家の徳左衛門でした。文化11年(1814年)2月21日、一茶は生家を義弟弥兵衛と折半、同年4月11日、52歳で野尻村赤松の常田きくと結婚。この時徳左衛門は遺産の一部を預かり、小作地の管理や年貢の代納などを行って、一茶家のくらしを助けました。その後一茶は信濃を中心に門人の俳句指導にあたり、自らも『七番日記』『おらが春』など多くの俳句を作りました。1827年(文政10年)、柏原宿の大火で類焼し、11月19日、焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じました。
 今、宮沢家には「おらが春」末尾の「ともかくもあなた任せの年の暮」の句碑があります。(「小林一茶ゆかりの地」参照)
大東亜戦争中に建立された鈴しょうわ
(昭和18年1月建立)
境内の様子 参道中央に建つ両部鳥居
向拝のない拝殿
拝殿内の様子

本殿覆い屋
蕎麦の花と実

流石 信州です、周囲は一面の蕎麦畑でした。秋の収穫も間近い様です。