鹿野田神社

西都市鹿野田(平成21年1月7日)

東経131度23分36.68秒、北緯32度04分04.28秒に鎮座。

 この神社は高屋温泉の北東約1.5kmに鎮座しています。324号線に建つ一の鳥居から神社までは凡そ250mほどあり、遥か遠方正面右側に大きな森が見えるのが鎮守の杜です。神社の社地は上下二段に分かれ、下の社地には日向灘の干満に合わせて水位が上下すると言われている塩水の御神水「潮満の井戸」が有ります。上の境内に上がるための石段左脇には推定樹齢450年のご神木・大楠が聳え、その姿には畏敬の念と心落ち着く安心感を覚えました。
 上の境内に上がると正面には拝殿が建立されていますが、狛犬の余りいない地域には珍しく拝殿前に建立年代不明の木製神殿狛犬がいました。又、赤い流造の屋根の本殿隣には境内社が二社祀られています。

 御祭神:彦火火出見尊
 境内社:稲荷神社、白鬚神社
 由緒:鹿野田神社は、古くは潮妙現大明神と称し彦火火出見尊を祭神とする、弘安(1278〜1288)以前の由緒ある神社である。
 古来この地方を支配していた、土持、伊東、島津などの領主の崇敬極めて篤く、また永く続いた神仏習合の時代には、恵日山光照寺が別当寺の役割を果たし、その繁栄を共にしてきた。近世にいたり丸山家歴代その大宮司として世襲し、特に寛政4年(1792)6月には、丸山相模守良記、高山彦九郎の巡拝を受けて共に時勢を談じ、また文政3年(1820)9月には、その嗣子讃岐守良記は、若き日の安井息軒を迎えて一夜を明かした。 明治初年新政府により神仏分離となるや、郷社 鹿野田神社と改称し、鹿野田郷鎮守の神として昔に変わらず郷民の崇敬を集めている。

324号線に建つ一の鳥居
社頭
神社入口の二の鳥居
入口にいる昭和61年生まれの岡崎現代型狛犬
(昭和61年(1986)11月建立)
「潮満の井戸」鞘堂
入口柱には「潮満の井戸 太古から湧き出ている御水です 鹿野田神社」と書かれています。
又硝子には、「鹿野田神社と潮満の泉について」の説明があり、
『この鹿野田神社は明治の初め頃まで、潮妙見大明神とか潮妙見様とか言われ、彦火火出見尊をお祀りしてあります。 創建の年代ははっきりしておりません。棟札は弘安6年(1283)からありますので非常に古いものと推察されます。 彦火火出見尊は別名を火遠理命といい海幸山幸の物語の中の山幸彦でありますが、兄君火照命の釣針をなくされ、それを探しに海神綿津見大神のもとへ行き、3年の後なくした釣針のほかに潮満玉と潮涸玉を授かって帰られました。(古事記)
この潮満玉・潮涸玉が鹿野田神社の御神体であり、この潮満の泉はその御神徳によるものといわれております。この潮満の泉は深さ一丈(約3m)余り、海を隔ること三里(約12km)に余りながらこの塩水は海水の干満と時を同じうして増減するといわれております。享保12年(1726)の社殿再興の棟札には、上下万民崇敬の様子を述べると共に、この潮満の泉の功徳をたたえて哀愍六合を覆うと述べております。
平安時代の有名な女流歌人和泉式部は八代(国富町)の法華嶽薬師に参籠した後、帰郷の途中再び病となり鹿野田氷室の里(潮)までたどりつきこの潮満の泉で湯治をと思ったのか、近くの薬師堂に籠り読経三昧の日を送り、この地で43才の生涯を終わったと伝えられています。 (墓は近くにあります。)
「日隠れや氷室の里を眺むれば藻塩の烟りいつも絶やせぬ」 (日隠れ=城内の古名)
これは和泉式部の歌といわれ、近くに籠った薬師堂跡と式部の墓があり里人によって祀られています。
このように由緒深い潮妙見様は、伊東氏・島津氏の両時代も領主領民に深く崇敬されてきました。江戸時代の末には、勤王の志士高山彦九郎が諸国遊説の途この社に参拝し村人と濁酒を汲み交し、また飫肥藩の学者安井息軒が都於郡の史跡巡りをしてここを訪れ神主の丸山宅に一泊して夜通し神楽を見物し「筋骨のあらぶる神の一さしに天の岩戸は早明けにけり」と詠んだと記されています。
時は流れて今日に至も常に里人の崇敬は篤く、霊験あらたかなるこの潮満の泉の塩水を薬用として飲用する人もあり春秋の大祭には大へんな賑わいを見せています。』と書かれています。
「潮満の井戸」鞘堂内部の様子
この井戸からの塩水が御神水です。 海水の約半分の塩が含まれていますが、10km以上も離れた日向灘の干満に合わせて水位が上下すると言われています。因みに御神水は一升が100円、一斗が1000円です。
推定樹齢450年のご神木・大楠
参道途中の三の鳥居 境内入口
拝殿
拝殿前、建立年代不明の木製神殿狛犬
縦置きで、かなり威厳のある顔つき、筋肉隆々の力強い体つきをしています。
狛犬の拡大写真はこちらで
拝殿内の様子
本殿
境内社:稲荷神社(左)、白鬚神社(右)
社殿前から境内入口を振り返る