天岩戸神社(西本宮)

西臼杵郡高千穂町岩戸1073-1 (平成25年8月8日)

東経131度21分07.01秒、北緯32度43分50.78秒に鎮座。

【狛見倶楽部 佐野支部 クマちゃん通信員より】
神社は高千穂町の中心部より北東約7キロの所にあります。狛犬は居ませんでした。そして、この神社、本殿がありません。社殿裏を流れる岩戸川の対岸にある、天岩戸が御神体だからです。神社から一旦、一般道に出て案内板から川沿いの道を進むと、天安河原があります。川沿いの道にはイワタバコの花が咲いていました。

御祭神 大日孁尊(おおひるめのみこと)=天照大神の別名

東西両本宮は元来は独立した別の社であった。ともに皇祖神天照大神を祀るとはいえ、創祀以来皇室や朝廷からではなく、在地住民からの信仰を主としている。
天岩戸神社西本宮は創祀の時代を詳かにしないものの、岩窟(天岩戸)を神体とするのは、古くからの信仰形態を示すものであるとされる。社伝によれば、瓊瓊杵尊が天岩戸の故事を偲び、その古跡に鎮祭したのが起源であり、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたが、戦国時代にたびたび焼失したという。元禄4(1691)年にまとめられた寺社明細記録『高千穂旧記』には「天ノ岩戸」についての記述の中に「拝殿有、四方見通に建たり、前ニ鳥居有」とあるのみで神社としては記載されておらず、簡素な遥拝所としての造りであったと考えられる。その後棟札によると、宝永4年(1707年)に荒廃した社地を整地し、文政4年(1821年)には延岡藩主の援助で社殿を再建したという。 天保8年(1837年)にこの地を訪れた松浦武四郎が紀行文(『西海雑志』)に記した「道の傍に二間に四間の遥拝所あり」がそれを指していると考えられる。天保12(1841)年にこの地を訪れた豊後の医師賀来飛霞はその紀行文(『南遊日記』)に、「殿アリ扁シテ(扁額に)天磐戸ト書ス」と記している。『日向地誌』でも、明治4年(1871年)に「天磐戸神社」と改称されるまでの旧称は「天磐戸」(神社とは書かれていない)としている。明治6年(1873年)村社に列し、同30年に社殿の造営が行われた。また明治24年に旧岩戸村の村社神楽尾神社、同42年に旧山裏村の杉圍(杉ケ越)神社や旧岩戸村の年神社など、明治以降近在の村社や無格社を合祀している。
同東本宮も創祀時代不明で、昌泰年間(898-901年)の古記録に、思兼神が天岩戸より出御した天照皇大神に、東本宮の地に造営した社殿への鎮座を願ったのに創まるという。その後の由緒も詳らかにしえないが、前述の元禄4(1691)年『高千穂旧記』[2]の寺社一覧表の中に「岩社 岩神」(岩神はこの付近の地名)とあり、これが当時の東本宮を指すと考えられる。参道に現存する石灯籠には天保11(1840)年と刻まれている。前述の賀来飛霞は、たまたま行き当たった秋祭りの様子とともに「土人ニ問ヘバ天磐戸大明神ナリト、石磴(石段)ヲ登リテ、茅檐(かやぶき)ノ祠アリ。祠ノ中ニ二神輿アリ。」などと記している(『南遊日記』)。『日向地誌』によると、明治4年(1871年)に「氏神社」と改称されるまでの旧称は「氏社」であった。明治6年に村社に列した。
両社ともに戦後は神社本庁に所属し、昭和45年に合併、現在は別表神社に指定されている。
現在、社務所は西本宮に置かれ、参拝客の多くが訪れるのも西本宮である。しかしながら歴史的に見た場合、前述の通り西本宮は神社というより天岩戸を拝むための遥拝所としての性格が強かったことは明らかであり、信仰の中心はむしろ天照皇大神を祀って来た東本宮であったと考えられる。
ウィキペディア より

神社入口に立つ一の鳥居と社号標

参道

二の鳥居

参道

神門

社殿

神楽殿


入口

岩戸川

イワタバコ

御神木「招霊の木」