鵜戸神宮

日南市宮浦3232(平成21年1月5日)

東経131度28分7.38秒、北緯31度38分48.78秒に鎮座。

この神社は、日南市の中央部、日向灘に突き出た鵜戸岬に鎮座しております。日向灘に面した断崖の中腹に、何時の頃か海食により出来た洞窟内に社殿があります。案内図はこちら。

鵜戸神宮御由緒
主祭神:日子波瀲武鵜葦草葦不合命
当宮のご創建は、第五十代桓武天皇の延暦年間には、天台宗の僧光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となり、神殿を再興し、同時に寺院を建立して、勅号を「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と賜った。
また宗派が真言宗に移ったこともあり、洞内本宮の外本堂には六観音を安置し、一時は「西の高野」とうたわれ、両部神道の一大道場として、盛観を極めていた。
そして明治維新とともに、権現号、寺院を廃し、後に官幣大社鵜戸神宮にご昇格された。
母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。又、霊石亀岩の背中に運玉を投げ見事にはいると願い事が叶うという伝えがある。
このほか、念流、陰流の剣法発祥の地として、厄除、漁業、航海の守護神としての信仰は愈々篤く、今後とも神秘な霊気によって人々の魂を高めて行くであろう。
境内由緒書より。

明治維新とともに、寺院を廃し、鵜戸神宮に云々・・・・と書いてあります。他の有名な大神社も殆どここと同じように廃仏毀釈で寺院は壊され、仏像や経巻は燃やされ、神社へと姿を変えていったのですが、皆悠久の昔から神社であったような由緒となっています。この神社のように経緯をさりげなく書いてある所は少ないと思います。いずれにせよ、江戸時代は鵜戸山仁王護国寺の十二坊が建ち並び盛観を極めたようですが、現在の神宮からは伺うことは出来ません。

山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に赴かれ、海神のむすめ豊玉姫命と深い契りを結ばれた。山幸彦が海宮から帰られた後、身重になられていた豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」とこの鵜戸の地に参られた。霊窟に急いで産殿を造っていたが、屋根の鵜の羽の茅も葺き合わぬうちに御子(御祭神)はご誕生になった。故に、御名を「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」と申し上げた。
鵜戸神宮公式サイトより。

東側駐車場よりの、参道入り口。流石観光地です。鳥居を潜ると両側は土産物屋と食べ物屋が並んでいます。

神門

楼門

参道

神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)
この神橋は、神仏習合時代には金剛界界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。
この神橋を渡ると御本殿に至る急な石段です。これより先は、古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かつては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣でお参りをしていました。今はその習慣はなくなりましたが、その心は生きています。
お参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御加護を受けられるといわれています。

現在は混雑緩和と安全の為でしょうか、一方通行となって行きは左手より下り、神橋を渡れるのは参拝を終えた帰りのみです。

結構急な石段を降り左手の岩窟の中に本殿が建っています。

本殿入り口

本殿

本殿正面

本殿の彫刻。拡大写真はこちら。

鵜葦草葦不合命の第一皇子、彦五瀬命を祀る皇子神社。

九柱神社
伊邪那岐命が、日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓ひし、身を洗い清めなされたた時、御生まれになられた九柱の神のお社です。
1.神直日神、2、大直日神、3伊豆能売神、4.底津綿津見神、5.中津綿津見神、6.上津綿津見神、7.底筒之男神、8.中筒之男神、9.上筒之男神

撫でると病気平癒、開運、飛翔など願い事がかなえられると言われている撫でうさぎ

御霊石。古い時代には本殿は無くこの石をご神体としていたのでしょうか。

竜宮に帰った母君の豊玉姫が鵜葦草葦不合命の育児の為、乳房を岩にくっつけて行かれたと伝えるお乳岩

お乳水。お乳岩から出るお乳水は今もなお絶え間なく玉のような岩清水を滴らせて、安産・育児・身体健全その他心願成就がかなうことで知られているようです。

産湯の跡

運玉と亀岩

運玉とは直径2cmの素焼きの玉で、境内から5mほど離れた断崖につきでた亀岩の頂にある窪みめがけて、男性は左手、女性は右手で投げ、うまく亀岩に乗れば願い事が叶うと言われています。

境内より見る日向灘

中央観光バス用駐車場からの参道入り口に立つ社号標と八丁坂に続く旧参道入り口に立つ一の鳥居

新参道はトンネルとなっています