穆佐(むかさ)神社

宮崎市高岡町小山田(平成21年1月8日)

東経131度19分9.8秒、北緯31度56分13.6秒に鎮座。

この神社は、穆佐(むかさ)小学校の北西1.2km程の辺り、人里からそろそろ山道になったかな、と思われる辺りに鎮座しております。入り口から境内まで巨木で覆われ、神秘的な雰囲気をたたえています。由緒書を読みながら、古に思いをはせるのも良いのではないでしょうか。

穆佐神社の由来
祭神:應神天皇・仲哀天皇・神功皇后
例祭日:11月23日
穆佐神社はずっと昔、宇佐八幡宮と呼ばれ小山田村にあり明治二十九年郷社穆佐神社に改められた。
旧穆佐村氏の氏神様として尊敬を集めていた。いつ頃祭られたのか不明。大分県の宇佐八幡宮と同じ祭神である。この宇佐八幡は平安時代の末ごろ祭られたという。その頃穆佐院は開拓されていたのであったろうが八代島津藩主天公穆佐院に在域中この神社を特に尊敬されたという。
境内入り口の由緒書より。

小山田八幡宮御由来
室町時代初期応永の頃薩隅日三州の太守島津氏は第七代元久公の時代であったがその勢力が漸山東方面へ延びて、元領地穆佐院を伊藤氏の手より奪回した。そこで島津氏としてはこの先端基地穆佐院高之城に屈強の人材を配置すべく人選の結果公の舎弟久豊公に白羽の矢を立て尋で之を実行にうつした。久豊公は当時南薩頴■城の守備についていられたが未だ独身の青年で新進気鋭の聞こえがあった。
一方敵方児湯郡都於郡の浮舟城を拠点にする伊藤氏は大和守祐安公の時代であったが島津氏の進出に恐れをなし対策を練った結果公の令嬢今や適齢期で花も盛りとばかりに美貌の妙久姫を久豊公の配して両家の親善をとり結ぶべきだと言う結論に達した。こうした人質を意味する政略結婚は戦国時代は慣用されたものである。果して何人が仲介の労を執ったかについては何等の記録も伝説もないが長き曲折の末であったろうことは疑うべきもない。愈に妙久姫は身の宿命を諦観されて十数年鞭育の大恩ある両親に別れを告げ久しく住み馴れた古里の山川を後にし涙を押へて遥な敵方穆佐院高之城に輿入れされたのであった。ところで結婚後のお二方は■■睦じく琴瑟相和し翌応永十年の夏青葉陰れに時鳥鳴きしきる五月二日城内壱の館の産屋に於て玉の様な男児を挙げられた。御両親は非常な御満悦で虎壽丸と命名された。そして早速館の側に記念のため杉苗を植えられた。之は後年御誕生杉と称せられ四百七十年の樹齢を重ね周三丈高さ天を衝く名木となったが明治七年山火事に因り焼失した。一方使者を豊前の宇佐八幡宮に遣はされ同社の分霊を申受けしめ勧請されたのが即当小山田八幡宮なのである。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三柱にまします。特に武運長久国家安穏五穀豊穣の諸分野に於て御霊験灼である。創建以来歳月を経ること実に五百六十一年その間吾等十数代の祖先は氏子として誠心誠意神明に奉仕してきたが更に吾等の後昆も亦一層信仰を篤うして末永く御神徳に應えてもらう様希望したい。
昭和四十年八月一日
拝殿内由緒書より。

最初の由緒書では明治29年に郷社穆佐神社に改められた。と書いてありますが、手元の昭文社の地図では八幡神社となっています。又、ちず丸も八幡神社です。昭和40年に書かれた二番目の由緒書が小山田八幡宮御由来となっているのも解せません。さらに入り口に建つ碑に八幡道路改修記念と書かれています。境内由緒書原文はこちら。

神社入り口

一の鳥居。鳥居の右下が八幡道路改修記念碑。

参道

参道左右の御神木

境内より

拝殿と本殿

社殿全体と社額

本殿正面

境内