宮崎神宮

宮崎市神宮2(平成21年1月7日)

東経131度25分33.09秒、北緯31度56分5.61秒に鎮座。

この神社は、日豊本線・宮崎駅の一つ北、宮崎神宮駅のすぐ西側500m程の辺り、閑静な住宅街の中に鎮座しております。社伝によれば、現在の神宮の鎮座地は、神武天皇が御東征されるまで宮居を営まれていたところで、天皇の御孫の健磐龍尊が筑紫の鎮守であられたとき、その皇居の霊跡に天皇の御神霊をお祀りされたのが始めだといわれています。正月の初詣時は宮崎県内を始め遠方から多くの参拝客で賑わうようです。

当神宮は神武天皇(神日本磐余彦尊)を主祭神とし、相殿には鵜葦草葺不合尊(御父君)と玉依姫命(御母君)が奉斉されている。天皇は四十五歳の御時天下統治に応しい地を求めて日向国を御出発数々の苦難の末に大和地方を平定され、第一代の天皇として即位された。後に皇子神八井耳命の御子(健磐龍命)により、天皇の御神霊が当地皇居高千穂宮の霊地に鎮祭され今日に至っている。
古来より神武天皇宮域は神武天皇廟と称されて歴代領主の尊崇篤く、明治維新に際し神武創業の昔に復えるという事で、特に注目、重視された。明治十八年官幣大社に昇格、社名も同十一年、宮崎神社から宮崎宮と改称され大正二年に現在の宮崎神宮となった。その間の明治三十一年神武天皇御降誕大祭会総裁公爵二条基弘、会長伯爵島津忠亮、幹事長男爵高木兼寛が発足し、社殿の造営境内地拡張等の大工事が進められた。特に明治天皇には御内幣金を下賜あらせられ、これを契機に全国的規模の募金活動が展開された。同四十年に竣工、遷座奉告祭が斎行され、更に同年十一月、嘉仁親王殿下、大正天皇の御参拝を賜った。以後皇族方の御参拝が続いた。殊に昭和天皇には皇太子裕仁親王殿下の御時、大正九年を始めとして六度の御参拝を賜った。又皇太后陛下には大正十二年、久邇宮良子女王殿下として御成婚御奉告を始めとして陛下と共に二度の御参拝を給わっている。
境内由緒書より。全文と案内図はこちら。

流石、神武天皇をお祀りした神社です。皇族方の御参拝がとても多いようです。しかし、現在我々が見ている神宮は高木兼寛が明治三十一年に神武天皇御降誕大祭会の幹事長になり、社殿の大造営を行った以後のものです。

参道入り口

参道

神門

外拝殿。我々のような一般参拝者はここまで。

拝殿

僅かに伺える本殿正面

古代船おきよ丸
西都原古墳群から出土した埴輪を原型に復元して「おきよ丸」と名づけて展示にいたる。
神武東征説
高原の狭野で成長したイハレヒコは、サノノミコトとも呼ばれていた。やがて宮崎の宮(皇宮屋〜こぐや)で日向を治められたが、全国統一の構想を練り、船軍を率いて東方に向かうことになった。東国征伐への出発に当たっては、八月一日の夜明け前、最良の日と判断され急遽、出航命令を下され家々の戸を叩き「起きよ!起きよ!」とふれまわり出航に間に合わせた。美々津の港から出航されたので、この地は「日本海軍発祥之地」と伝承されている。
案内板より。

御神木のラクウショウ。みやざきの巨樹百選に選ばれています。ラクウショウと書かれても全然判らなかったの調べてみました。

北アメリカ原産の落葉針葉高木。根元が少し水につかった状態で自生することが多い。花は雌雄異花で開花期は4月頃。果実は緑色の球形である。湿地に植えると、幹の周りに呼吸のための気根(呼吸根)が出てくる。湿地に向いた木であるが、通常の土地でも植栽できる。繁殖は実生、挿し木。木材は建築(屋根板など)、器具、土木(枕木など)、船舶材などとして利用されることがあるが、腐りやすく折れやすい。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。