生目(いきめ)神社

宮崎市生目(平成21年1月8日)

東経131度22分45.2秒、北緯31度54分53.23秒に鎮座。

この神社は、宮崎駅の西5km程の辺り、生目地区にある小さな亀井山の頂に鎮座しております。眼病に霊験あらたかとして、とても有名な神社です。

日本一社 生目神社御由緒
御祭神
(主祭神)品陀和気命・藤原景清公
(御相殿)彦火瓊瓊杵尊・彦火々出見尊・鵜茅葦不合尊

祭日
旧正月15日16日17日 縁日祭(1年で一番賑い、参拝者はひきもきらず日に万を超える。)
2月17日 祈年祭
3月15日に近い前後の土曜日 里神楽祭(日中より夜迄里神楽が奉納される。)
11月23日 例祭、新嘗祭(氏子献納の果実蔬菜の品評会、せり市が催される。)
毎月1日・15日 月次祭

御由緒
本神社は古来、生目八幡宮(活目とも書く)と称えていましたが、明治維新に至り、生目神社と改称せられた。(旧県社)
◎(御霊験のこと)昔より眼疾に霊験あらたかなりとして崇敬殊に厚く、「日向の生目八幡様」として、広く知られ、九州はもとより、北は北海道、本州から直参祈願される参詣者も多い。
◎(御創建のこと)本神社の創建に関しては、元亀、天正の兵火で古書、棟札等が焼失し尽し詳ではないが、「宇佐大鑑」には天喜四年(1056)に既に之の八幡社が建立されてあったと記され、尚僅かに遺された棟札によっても、宝徳二年五月(1446)に遷宮祭が行われた事が知られる。下って弘治二年(1556)には既に多くの社領神田を有していた旨の旧記あり。
これらの事実は本社が実に貴きお方々を御祭神として奉祀している所以で古くから世の崇敬厚かったことを物語っている。
◎(いくめの起源)種々の説があり何れを真ともなしえないが
一説には景清公、日向下向に際し居を此地に撰び閉居され生を卒えられた。公の歿後、公の活けるが如き霊眼を斎き祀ったと。
一説には当地は古より霊地として眼疾患者を活かすに不思議に著しき霊験あり、古人其神徳を辱み奉り生目(活目)八幡宮と称え奉ったと。
一説には活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと 垂仁天皇)を奉斉した社であると。
蓋し、御子景行天皇熊襲征伐の途、御父君垂仁天皇の御命日に偶々之の地にて神霊祭を御営みになられたのを住民等欽迎し聖地として永く奉斉し活目八幡宮と称え奉ったと。

御神詠
元禄二年(1689)三月三日、豊後国日田の郡代池田季隆来拝し「かげ清く照らす生目の鏡山、末の世までも雲らざりけり」と和歌を献詠された。その後御神託により「鏡山」を「水鏡」と改め、御神詠となした。
「かげ清く照らす生目の水鏡、末の世までも雲らざりけり」
参詣の方が御供の神水を目洗水として受けて行かれます。
境内由緒書より。

参道入り口

入り口を護る狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和39年(1964)旧正月15日建立)

参道

拝殿

本殿

若宮神社 八坂神社

八坂神社をお守りしている、可愛い狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和9年(1934)9月1日建立)

セキの神

銀杏

おがたまの木

いづれも数百年から千年内外で老楠は明治三年当局から諸神社の楠材伐採の布令があったのに対し、神慮を配し、玄米三石八斗を償い免除をえた旨の碑があり、樹齢の古老なるを推測しうる。

日露戦役紀念 不明の末社

御神水の泉入り口は日乃出屋さんの手前を左に入り、3分程下ると右手にあります。

絵馬にもなっている泉がこの先にあるようです。

泉。この水にはホウ酸が含まれていて、実際眼に良いようです。眼病に霊験あらたかな筈です。

御祭神の藤原景清公と目の関係だが、この宮崎に伝わる伝説をご紹介します。

壽永四年、平家が壇の浦で敗れた後、頼朝は平景清の武勇を惜しんで、自分の下に重く用いたいと思った。しかし景清は、その厚意を断って、西国に流してくれるように願った。頼朝は景清を日向勾当(こうとう)とし、宮崎郡北方百町、南方百町、池内村百町、計三百石を与えた。文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半(まつは)、山野、旧橋(ふるはし)、重長、有半(ありわ)の諸氏を引き連れて、日向に下り、下北方古城(宮崎市)に居城した。
 その地に住み着いてのち、景清は深く神仏に帰依した。下北方名田(みょうだ)、帝釈寺(たいしゃくじ)、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立した。静かな余生を送りたいと考えたが、過去に対する追憶や後悔、源氏が勢力をふるっている現実に対する不満などのために、煩悶(はんもん)し続けた。ついにはその苦しさから逃れるために、自分の両眼をえぐって、虚空(こくう)に投げつけた。投げられた両眼は付近の生目の地(宮崎市生目)にとどまった。現在、目の神様として知られている生目神社は、その景清の両眼を祭っているといわれている。
日向民話集より。

平 景清(たいら の かげきよ、生年不詳 - 建久7年(1196年)?)は平安時代の武士。藤原忠清の子。
平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)である。本名は藤原景清(伊藤景清)。通称、上総七郎(かずさのしちろう、上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった。
平安末期における源平の戦いにおいて活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の合戦で敗れた後に捕られ、預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれるが異説もある。
「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。
実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、各地に様々な伝説が残されているが、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ない。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。