江田神社

宮崎市阿波岐原町産母127(平成21年1月7日)

東経131度27分59.04秒、北緯31度57分19.62秒に鎮座。

 この神社は宮崎シーガイヤ・市民の森に隣接して鎮座しています。
 日本神話に記される、黄泉から帰還した伊邪那岐尊が禊を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の地とされる、現在も阿波岐原町と命名された地の鬱蒼とした森の入口に、社頭があります。
 「縣社江田神社」と書かれた社号標と鳥居のある入口を奥に進むと、真っ直ぐに伸びた参道は200m程有るでしょうか、玉砂利の参道を進むと途中にふるびた鳥居が建ち、参道脇には楠やオガタマノキなどの巨木が聳え、この社の歴史の永さと由緒を感じさせています。
 参道正面奥には横に広い荘厳な拝殿と、大きな流造りの本殿が建ち、本殿縁には極小さな玉乗り狛犬がいました。
 又、沢山のお神籤が結ばれていましたが、この社のお神籤は破魔矢付きのようで、一段とありがたみが増しているようです。
 参道左、駐車場にはイザナギ、スサノオ、アマテラス、ツクヨミを現した「みそぎの碑」も建っています。
 まさに日本神話発祥の地ともいうべきこの社、それを大々的に宣伝するわけでもなく、参拝者はそれほどおりませんでした。けれど辺りに漂う空気は厳かで、何とも言えない清々しさが感じられました。

 御祭神:伊邪那岐尊、配祀:伊邪那美尊
 祭礼日:祈年祭・2月17日、大祓祭・6月30日 特殊神事 茅の輪潜リ、例大祭・11月22日、新嘗祭・11月23日
 由緒:本神社は太古の御創建にして其の創立の年代は詳かならざるも、此の地一帯は古来所謂日向の橘の小戸阿波岐原として伊邪那岐の大神禊祓の霊跡と傳承せられて、縁起最も極めて深き社ならむ。禊祓の際、天照皇大神、素盞鳴尊と住吉三神の神々が御誕生あらせられたる霊域の地と傳ヘ、即ち上代に於ける中つ瀬と稱せる御池、本社を去ること約5丁の東北に現在す。 後、世人入江を開墾して江田と稱し、里人俗に當社を産母様と稱へて今日に至る。
 仁明天皇承和4年丁己8月官社に列せられ、文徳天皇仁壽元年辛未正月従四位下を授けられ、清和天皇貞観元年己酉10月従四位上に進められ、其後丹融天皇天録元年2月迄に天変地妖兵革等の年母に敍位8回に及び、正一位に昇階ありしと云う。 醍醐天皇の延喜年間に於て、延喜式内社日向四座の一社として神明帳に登載せられ、祈年新嘗の奉幣を承け居りしが、後西院天皇寛文年間に神社の制度に変革を来し、遂に一村落の産土神と同様の取扱を承けるに至れり。
 明治維新に際し、明治6年5月25日に社格縣社に列され、同40年2月9日神饌幣帛料供進を指定されて今日に至る
(境内由緒より)

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
 「お祓いの「かけまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に…」の祝詞の発祥の地と云われ、国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の、「日向国子湯郡子都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神社を官社に預かる)」という記事である。延喜式神名帳では小社に列している(日向国で大社に列している神社はない)。
 天禄元年までには神階が最高位の正一位まで進むなど、かつては社勢を誇っていたが、寛文2年(1662年)、大津波により社殿を失ってからは衰退し、一村落の産土神の扱いとなっていた。地元の人々からは「産母様」と呼ばれていた。」とあります。

「日向神話 神々の系図」はこちらで

社頭
一の明神鳥居
社号標
「縣社江田神社」
参道入口付近の様子
参道途中の二の明神鳥居
古い物なのでしょうか?補強がしてあります。
ご神木
参道右側の大楠
根元から数本に分かれ、
見事な枝ぶりを見せています。
郷土の名木
オガタマノキ
社殿近くの参道の様子
拝殿
拝殿内の様子 流造の本殿
本殿縁にいる極小さな玉乗り狛犬
(軒下で薄暗く、遠くからやっと写したので、手ぶれはご容赦を)
この社のお神籤は破魔矢付きのようです。 参道左、駐車場にある「みそぎの碑」
「案内」はこちらで
後ろ中央はイザナギ、
手前左から海・スサノオ、
日・アマテラス、
月・ツクヨミを表わしています。