粟野神社

宮崎市高岡町下倉永(平成21年1月8日)

東経131度20分30.65秒、北緯31度56分4.12秒に鎮座。

この神社は、東九州自動車道・宮崎西ICの西側1.5km程の辺り、13号線下倉永交差点のすぐ近くに鎮座しております。

粟野神社御由来
抑々、高濱の里に鎮座し給ふ粟野宮は応永年間、島津久豊穆佐城御在城の砌地穆佐院の宗廟と定め給ひてより領民の篤く崇敬する処なり。祭神は大己貴命、少彦名命、御井神、建御名方命、味粗高彦根命、高光照姫命、下光照姫命、事代主命の八柱にてまします。この御神は別けて農桑の上に霊験いやちこ也。天正十五年豊太閤九州征伐の時社殿は兵燹に罹りて古記録神宝悉く灰燼に帰し、其の由緒尋ぬるに由なし。慶長五年高岡郷御取立以来、穆佐高岡両郷の共同管理に移りしも流鏑馬の神事の如く尚且伝統に従ひ、穆佐郷両小路組を先頭に立つるを例としたり。會々(たまたま)天明元年十月初午の例祭に際し高岡は大郷の威勢を以て擅(ほしいまま)に先例を蹂躙して該郷■田組をして流鏑馬の先頭に立たしめむとせり、之を見たる西小路組の射手中原弥九郎憤然として馬上弓を満月に引絞り鋲と放てり、あはや先頭射手が八重笠頂辺のころり■は流星の如く中天高くぞ舞ひ上りける。之を尻目に掛けて弥九郎は穆佐郷の名誉に掛けて止むに止まれず御無礼致した御免候へと大音声に呼ばはるや駒をざんふと許り去川の早瀬に乗り入れ流れに従ひて下り宮水流町頭の岸に辿り着きぬ。此為体(ていたらく)を見て競ひ立つたる両郷の若衆原入り乱れての小競合を演じて爰に端なくも修羅の巷にぞ現じける。西小路の郷士轟木権之進は名うての槍遣なるが此の競合に分けて豪勇の名を馳せたり。此の善後策に付穆佐方曖役阿万興三右衛門■為壽殿と高岡方曖役衆との間旬月に亘り談判行われたるも遂に妥結に至らず是に於て、穆佐郷にては粟野宮の御分霊を申し受け上倉永在に■初の小祠を建て、爰元に御安置申上げ一面社殿の御造営を計画し藩庁の認可を得敷地を下倉永にうつし浄財を募ると共に衆力、山の美材を伐出し工匠を入れて工事を進め翌天明二年寅年、美事竣工して遷座式を執り行うに至り宗廟と氏子との浅からぬ縁故を聢と繋ぎ止め郷民一同初めて安堵の思ひを致したり。当社明治四年十一月社号を粟野神社と改称され、社格を村社に列せられ同時に地元宮水流、下倉の部落民を以て氏子と定められたり。例祭夏は水無月二十七日此日神輿濱下りの事あり。秋は神無月初午此日流鏑馬の神事あり馬場の両側に観覧桟敷をしつらふ等中々の賑ひを呈したりしも是等神事は今は殆ど廃れたり。自今当社は神威弥が上にも輝き渡り天津日の空行く限り荒金の玉敷く極み村の鎮め民の護りを幸ひ給ふらむ民子等は神明に対し奉りて慎み崇敬の念を篤くし祭祀を鄭重にし不断に心鑑を磨き社殿の営繕神域の清掃などはゆめ疎かにする勿れ。
昭和十八年十月二日奉納 阿万武夫撰文
拝殿由緒書より。原文はこちら。

流鏑馬の争いごとから、神社を分けた経緯が書かれています。これを書かれたのは、争い当事者の子孫のようです。

神社全景

拝殿

本殿

本殿龍の彫刻

拝殿内部

日露戦役紀念碑