粟野神社

宮崎市高岡町花見(平成21年1月8日)

東経131度18分48.89秒、北緯31度56分54.39秒に鎮座。

この神社は、高岡町高浜・月知梅公園の東北東300m程の辺り、大淀川の対面に鎮座しております。現在は359号線に入り口がありますが、嘗ては大淀川に向かって鳥居が建っていたようです。現在でも社殿は川を向いて鎮座しております。

御祭神:大己貴尊・少名彦名尊・事代主尊・味鋤高彦根尊・下光照姫尊・高光照姫尊・御井神・建御名方尊


粟野神社由緒
古くは粟野八社大明神と申し上げ遠く他の領地までも神威輝き毎年旧暦六月二十六日より浜下りと称し延岡領宮崎郡上ノ町(現在の宮崎市役所附近)まで御神行の行事ありて遠近よりの参詣人多く神威甚だしき旨記しあり。神社創建の年代詳らかならず。
慶長五年庚子年島津義弘高岡郷御取立の節既存の粟野宮を高岡郷の惣廟に定められ爾来歴代島津との崇敬厚く禄高を奉り再三の改築には多額の金穀を奉納せられた。
現在の御宮は、嘉永五年二月吉日、舞殿、拝殿、造替
薩隅日寺社官庁
地頭島津蔵人 藤原久名
境内由緒書より。全文はこちら。

参道入り口と社号標

浜下りの絶えてしまった現在、入り口が川の反対、県道側になった為参道は90度左に二回曲がります。

大淀川堤防より見る社殿と嘗ての鳥居跡。狛犬もこちら向きに置かれています。是非浜下りを復活して欲しいものです。

拝殿前縦置きの狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和9年(1934)3月節分建立)

神社前の大淀川

 昭和の初期頃までは、神社の祭礼3日目に浜下りがあった。神輿を乗せた御神船を青年の船ニ艘が引き、その後ろに氏子や青年たちが乗った小舟が三艘付いた。御神船は大淀川の大丸橋の上手から上流へと賑やかに進み、横岩の手前から方向転換して粟野神社へと下る。船が再び大丸橋の上手にさしかかると、青年のニ艘の引き船は一斉に粟野神社まで漕ぎ下って行く。このとき、棹で水面を叩いてしぶきを上げ合う「御祓い」は浜下りの圧巻であった。岸には見物の人々がひしめき合っていた。
 文政7(1824)年作成の「名勝志高岡」によると、同神社には旧6月29日から始まる夏越(なごし)の祭りがあり、この行事を「御祓いとして浜下り有之候」として次のように書いている。
 みこしを乗せた船は、猿田彦神の幟を立て、別当船や数そうの供船を従えて大淀川を下る。下流の延岡領・上ノ町(現在の宮崎市上野町)に着くと、そこにはお旅所が準備されていた。
 船はそのまま川原町の辺りまで下り、ここで神輿は潮水の御祓いを受け、再びお旅所へ帰ってくる。これは日向の小戸の橘(たちばな)の檍原(あおきがはら)の中津瀬で御祓いをしたという昔からの言い伝えに従ったものであった。
 この浜下りのときは、郷士の奉公人や町人たちが、家紋の船印を押し立て、数丁の櫓で上ノ町までこぎ下ったという。
 帰りは、大勢の人がカズラで作った数十尋=ひろ=(約150メートル)の大綱を引き、上ノ町から粟野までの4里(16キロ)の川を上る。上ノ町から大塚、小松、富吉村と村継ぎで順送りに引いて上がる方法である。中には粟野まで通しで引く者もいた。
 こうしたことは昔からのしきたりで、変わることなく続けられ、粟野神社のご威光は大変なものであった。お旅所を設けた上ノ町は、各地からの参詣(さんけい)人が多く集まり、商売も繁盛し、活気にあふれていた。
宮崎の神話と伝承より抜粋。

社殿全体

拝殿と本殿

本殿縁下の腰組

拝殿内部

境内の末社

御神木