榎原神社

南那珂郡南郷町榎原甲(平成21年1月5日)

東経131度18分16.83秒、北緯31度32分5.12秒に鎮座。

この神社は、日南線・榎原(よわら)駅の北西600m程の辺りに鎮座しております。駅からの道が220号線と交差する北側に榎原神社参道の標識と一の鳥居が立っています。そこから500m程住宅街の中を行くと正面に二の鳥居と楼門が見えてきます。

祭神
天照大神・天忍穂耳命・彦火瓊々杵命・彦火々出見命・鵜茅葦不合命・神日本磐余彦命

榎原神社は江戸時代初期万治元年(1658)第三代飫肥藩主伊藤祐久公が、当時神女として崇められていた内田万寿姫の進言によって鵜戸神宮の神霊を勧請し藩内の鎮守として創建したもので榎原大権現と称していた。・・・・
境内由緒書より。全文はこちら。

220号線に面して立つ一の鳥居

参道

神社入り口に立つ二の鳥居

県指定文化財・文化13年(1816)建立の楼門

楼門の前に居る浪速狛犬。拡大写真はこちら。奉納者が屋号のみなので江戸時代と思われます。

神門の仁王像。これも他府県であれば随身さんに取り替えてしまわれたと思います。

県指定文化財・万治元年(1658)建立の鐘楼

県指定文化財・宝永4年(1707)建立の社殿

神女内田万寿姫を祀った桜井神社

万寿姫の生涯は「榎原山縁起」に記されているようです。
古来より榎原参りと称して鵜戸神宮を経て参拝する者も多かった。新婚夫婦によるシャンシャン馬道中の鵜戸山参りは旧3月16日に行われていたが、これは万寿姫の命日であり、本来、榎原桜井両大権現の縁日であった。『榎原神社今昔之記』内田万寿姫は元和6年(1620)の初夏に福島西方(現串間市)に父内田外記の元に生まれる。容姿端麗にして5、6歳から仏神に心を寄せていた。一七歳のときに一度は嫁ぐことになるが病気を患い婚姻には至らなかった。それをきっかけに万寿姫は信仰への道を深めていった。寛永十七年(1640)九月、万寿姫二一歳のときに鵜戸神宮参詣の帰途、髪を振り乱し、眼は血走って眉は引きつり見る見る恐ろしい形相に変ってしまった。困惑した父外記は真言宗地福寺初代住職精能に魔祓いの祈祷を頼んだ。 明暦2年(1656)万寿姫三七歳のとき飫肥藩主伊東祐久に対して、小社を建立し鵜戸山の御分霊を榎原権現として祭るよう進言があった。その時、万寿姫は神女改め法女と号す。寛文十年(一六七〇)三月十六日、病気のため遷化、法名を寿宝院と称した。延宝二年追善供養の後、桜井宮如意輪観音として桜井神社に万寿姫の神霊を祭った。 榎原神社社殿(一七〇七)・社務所(一七九二)・現摂社桜井神社社殿(一七九七)・鐘楼(一八四二)など数々の末社などが建立された。 また、神社には万寿姫が使った桧扇・神鏡・天冠・数珠・白装束のほか、肖像画・刀などが残されている。
宮崎県民俗学会より。

天満神社 住吉神社

霊社

御神木の夫婦楠。樹齢600年。

境内片隅の仏頭?と榎原大権現御寶前石燈籠