水沼神社

児湯郡新富町日置679 (平成26年2月9日)

東経131度30分52.45秒、北緯32度04分38.71秒に鎮座。

この神社は、JR日豊本線・日向新富駅の北東1.5km程の辺り、湖水ヶ池公園に鎮座しております。

御祭神 水波能女神・闇淤加美神・鳴雷槌神

由緒
天正十五年(1588)秋月公が筑前国甘木から日向国高鍋に封ぜられた際、藩公の一族であった宇都宮弥三郎朝繁を神官に任じ、「神主兼宮司使嫡男代々可相勤之旨被付仰」との墨付により、今日に至るまで宇都宮家の子孫が継承して奉仕を続けて来た。
神社所有の湖水ヶ池は面積六町余の広さがあり、夏になると蓮の白花が池一面に見事に咲盛り馥郁たる香を漂わせて、参拝者の心を和ませている。現在は新富町の湖水ヶ池公園に指定されている。この池の蓮は、秋月公が国替の際に、その苗を取り寄せて住民の殖産興業を慮られ、この池に移植されたと伝えられている。又蓮根は他所より特に味が良く、節も長く柔らかで、大変賞味されている。
秋の大祭には当神社でも臼太鼓踊、嫁奴踊、棒踊等が氏子民により奉納されていたが、大東亜戦争中に中止されてから今日未だ復興されていない。
当神社の「湖水ヶ池」には『富田村治要綱』によると、次のような伝説がある。
昔神社の後方には、周囲十八町の南北に長い池があった。その岸には松が生い茂り、松林の中は、じめじめとして、昼も薄気味が悪かった。近くに、太郎兵衛という農民が、妻をなくし、娘と暮らしていた。家は貧しくても美しい娘だったので、末を頼みに日を送っていた。或る日、突然娘が見えなくなった。この池に落ちて死んだのだ。老父は驚き哀しみ、娘を探したが、姿はどこにも見えない。泣きながら娘の名を呼び続けると、静かな水が動き、髪の乱れた娘が浮かんだという。驚く間もなく、娘の体は水底に沈んだ。老父が前に増して悲しみ、娘の名を呼ぶと、再び水が動き、現れたのは大蛇であった。池の主が娘を取ったと考えたか、老父は「今日より我が子を見ず」と嘆いた。この言葉から「子見ずの池」と呼ぶようになり、それが訛って「湖水ヶ池」となったのだという。
宮崎県神道青年会公式サイト より

一の鳥居

神額

参道を横切るJR日豊本線

二の鳥居

参道

石段下左右の陶器製狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

手水舎

三の鳥居

拝殿

拝殿内部

本殿


湖水ヶ池