比木(ひき)神社

児湯郡木城町椎木1306−イ (平成26年2月8日)

東経131度27分10.11秒、北緯32度09分43.35秒に鎮座。

この神社は、木城町役場の西2km程の辺り、木城町椎木の街中に鎮座しております。

御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)・素盞嗚命(すさのをのみこと)・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・三穂津姫命(みほつひめのみこと)・福智王(ふくちおう)

御由緒
1800年前に創建された児湯地域の古社で楠の大木におおわれ、ちしゃの木(県の巨樹百選)などめずらしい樹木もある。又龍神絵の天井画も有名である。
「第十三代成務天皇の御宇、武内宿称を以て国県を分ち邑里を定むる時、比木方百町、郡司方百町の宗廟五社大明神を崇め奉る者也。」と『御社比木神社縁記』に記され、児湯地域の極めて古い創建の社であると推定される。又、特殊な神として百済の国の福智王を合祀している。天平勝宝八年(756)百済国内が大乱したため、父禎嘉王と共に安芸厳島に逃れた。二年後福智王一行は高鍋町蚊口浦古港に、父禎嘉王一行は日向市金ヶ浜に上陸、没後禎嘉王は神門神社(東郷町)に、福智王は妃と共に当社に合祀された。
高鍋藩主秋月家代々尊宗厚き神社であって、同社を秋月家の氏神として、又、新納鎮守で正観音を本地とする神として宗教制作の中心とし、歴代藩主よりの御寄進も多く、三代種信公の時には社領増加五十石、その後五十二石五斗になり、祭典には参拝代参がなされた、『本藩実録』には寛文九年(1669)社殿焼失、二年後改築、同十二年二代種春公より大神神輿寄進、元録二年(1689)四代種政公鳥居建立、同三年社殿改築、宝暦二年(1752)六代種美公一の大鳥居建立、安政四年(1857)社殿修復の記録が見える。
又、雨乞をはじめ藩内平安、病気平癒、五穀豊穣、厄祓等の祈願、報恩感謝の祭典を年に数回斎行された。
明治元年の神仏分離令により長照寺号が廃せられ、比木輪番所となり、同二年比木神社と改称、同五年郷社に列せられる。現在の社殿は明治十年により造営されたもので、渡殿の天井板七坪に藩の絵師季仲により神龍一対が描かれている。この絵師季仲が龍を描くにあたって、龍の化身の美女が現れて龍の姿を見せたという話も残っている。
当社には古来からの特殊神事が多く、御里に廻り、裸祭、神事、六社連合大神事、大年下り、神門御神幸祭、御鈴の口開け等がある。
「御里廻り」は十月二十八日、二十九日の両日高鍋、木城の三十ヶ所近い御旅所を神輿が御巡幸する祭で、祭神大己貴命が国土を巡幸し天下を治められた愛民治国の遺風を残すものといわれている。
「裸祭」は”裸ホイホイ詣り”ともいわれ、十一月十四日福智王の太子を祀った摂社若御子神社のお祭の夜、参拝者は自宅にて水で身を清め、フンドシ、腰巻姿で腰には〆縄を締め”ホイホイ”と声にして参拝し、身体健康、家内安全を祈願したと伝える。現在は小丸川で禊し、火除牟田の祠にオキリを運び、この神事を復活伝承しつつある。
「神事」と「六社連合大神事」は秋月藩公息女重病の折、当社に祈願したところ平癒せられたるを以て、報恩感謝のため終夜神楽を奉納したのが始まりで、後年祭として藩内の祈念攘災の御祭りとして六社連合大神事が行われる様になり、木城町比木神社、高鍋町八坂神社、川南町白鬚神社、平田神社、新富町三納代八幡神社、高鍋町愛宕神社で、毎年旧暦十二月二日に高鍋神楽三十三番が奉納されている。これは六社が順番に受持ち六年毎に当番となるもので、比木神社では特に新暦十二月五日に奉納される。
「神門御神幸祭」は、旧暦十二月十四日〜二十三日の十日間(現在は三日間)、父神禎嘉王を祀る神門神社を訪ねる御神幸祭である。神門に行くのを「上りまし」帰るのを「下りまし」と言う。御神幸の供奉員は平年十八名(閏年は十九名)と定められている。御神幸は福智王の弟華智王を祀る伊佐賀神社で神門神社側と出会い、その後禎嘉王の御陵である塚原を「オー」の声で三度回り神門へ御到着、翌日御装束替え、大祭典、益見太郎塚、山宮社、御洗濯、御宮巡り、御稲穂受けの神事がある。別れの日は互いの顔に白粉を塗り合い、”オサラバー”と言い合い乍ら御還幸となる。
「御鈴の口開け祭」は、旧一月五日に御神楽初の祭と称し、祭典の後神楽五番が社殿で舞われる。
宮崎県神道青年会公式サイト より

境内由緒書きはこちら。

一の鳥居遠景

道路に立つ一の鳥居

神社全景

社号標

参道入口と二の鳥居

参道途中の構え狛犬。拡大写真はこちら。
(明治2年(1869)己巳建立)

三の鳥居

拝殿内部

本殿


菅原神社・稲荷神社 一宮神社

末社

御神木