児湯郡新富町富田3-12 (平成26年2月9日)
東経131度29分42.70秒、北緯32度04分05.01秒に鎮座。
この神社は、JR日豊本線・日向新富駅の西1km程の辺り、新富町富田の街中に鎮座しております。
御祭神 仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
由緒
当八幡神社の創建の年代、由来については、その記録、棟札等焼失し不詳なれど、『宇佐大鏡』に、富田庄八十町が宇佐神宮領に属する記事が有り、八幡神社が宇佐八幡宮の分神として現在の地に奉建されたのが、その創建であることがほぼ確認された。それによると、当時すでに宇佐神宮領であった臼杵郡県の庄(今の延岡地方)の領内封民を、いまだ荒野の地であった富田方面に移し、新開田させ宇佐神宮領と定めたもようである。その開田当時のことが『宇佐大鏡』に次のように採録されている。
「富田庄起請田四十四町、国司海宿祢為隆任永承年中封民十五人之代荒野之地差四至進宮立券之間所開作也」とある。
宇佐神宮領として新開田する場合は、その地に宇佐神宮の神霊を移し奉祀して起請を立て開田に着手するを例としたのである。その開田に当る責任者、国司を別符(びゆ)者と称し、海宿祢為隆がその時の別符者に任じられ、為隆により宇佐神宮の分神が奉持され、即ち、宮を進め現在の八幡神社(元八幡宮)として奉祭されたのが始りであると推考される。
当社で六年目毎に執り行う、特別大神事祭典は、旧高鍋藩秋月氏が筑前秋月より、財部(延宝四年高鍋と改む)に転封され、その後七代の種茂が封を継いだ。種茂の治世に藩内荒凶相重なり、そのうえ悪疫が流行したために、士、庶民共に困窮した。これを憂えた藩主は藩社、比木、八幡以下六社に自ら巡拝し、五穀豊穣、悪疫退散、藩民安泰の祈願神事を執行した。以来、六社が輪番制にて、旧暦十二月二日夜を徹して、夜神楽を奉納する神事は今日につづいている。
宮崎県神道青年会公式サイト より
参道入口
神社入口
境内
拝殿
拝殿内部
本殿
末社
御神木