八幡神社

登米市中田町上沼八幡山47 (令和5年8月5日)

東経141度16分32.98秒、北緯38度44分51.25秒に鎮座。

この神社は、登米市役所の北東10km程の辺り、八幡山の街外れに鎮座しております。

御祭神 応神天皇

由緒
当社は、平安時代中期に源頼義公・義家公父子が、京都の石清水八幡宮を勧請した神社である。諸伝によると、鎮守府将軍源頼義公とその子義家公は、前九年の役に際し天喜5年(1057)と康平年中(1058〜65)の2度にわたり当地に陣を構えた。その際、義家公が祭壇を設け八幡大神を勧請し戦勝を祈願したところ、霊夢を得て、激しい戦いの末に勝利を収めることができた。八幡大神の守護に深く感謝し、凱旋にあたり、治暦年中(1065〜69)、あらためてこの地に境内を寄進し、義家公が自らの「八幡守本尊」を奉祀し武具を納め、一社を創建したことに始まる。『奥羽観蹟聞老志』〈佐久間洞巖著、享保4年(1719)〉には、「八幡ノ社 在上沼村後冷泉帝治暦年中源義家東征之時次軍于此地治平之後所建也 傍有湖水曰八幡湖」との記事がある。同書に載録された宮城県内の八幡神社は、当社を含めて仙台市の大崎八幡宮と亀岡八幡宮、栗駒町の屯岡八幡神社の僅か4社を数えるのみで、往古より仙台藩北部の代表的な八幡神社として広く認知されていたことを示す。さらには『観蹟聞老志』以降、『封内名蹟志』〈佐藤信要著、寛保元年(1741)〉、『封内風土記』〈田邊希文著、明和9年(1772)〉といった、仙台藩の意向で編まれた地誌にもその記事が見える。また、『風土記御用書出』〈登米郡=安永3年(1774)〉では、別当地主(妙覺院=社家・白旗家)・祭日(3月15日、8月15日)・竪額そして義家公にまつわる旧跡数カ所とともに、社殿について「本社(御本殿を指す)壹間、拜殿三間」と記録されている。現在の御社殿については、宮殿(御本殿)・拝殿の棟札により、明和7年(1770)から安永5年(1776)の7年間、惣村中のべ14,838人の人足を費やして造営されたものであることが分かる。このとき随神門や四方の参道の整備なども併せて行われたこと、仙台藩一門の登米伊達家(「御城主様」=9代式部村良君)からは金百切の寄進があったことも記されている。登米伊達家の崇敬をみると、御社殿造営の他にも慶長10年(1605)3月15日付の登米寺池城主・初代伊達(白石)相模宗直公の寄進状で田高が献納されたことや、慶長12年3月15日付の古牒で同じく伊達宗直公の名で文庫箱一個が奉納されたこと、また大坂夏の陣の明くる年元和2年(1616)、宗直公から槍一筋の奉納があったことが知られる。さらに2代刑部宗貞君の頃、寛永13年(1636)に御旗一旒の奉納、文政12年(1829)には11代長門宗充君の命を受けた社寺奉行春日五八郎による屋根替えなどもあった。このような江戸時代を通じての登米伊達家の崇敬は、当社を弓箭の守護として篤く尊崇していたことを物語る。旧社格等については、明治6年5月2日、村社に列せられ、同40年3月1日には神饌幣帛料供進社の指定を受けた。さらに、昭和4年8月に神饌所が造営され、同年9月14日、郷社に列せられた。近年にいたって、昭和61年、当社に伝わる「加茂流法印神楽」とご神木である義家公お手植えの「姥杉」2本、そして鎮守の森を形成する「古木群生林」が、相次いで中田町文化財(当時。現在登米市文化財)に指定された。平成の御世に入ってからは、平成3年に御大典奉祝記念事業として大鳥居(高さ12M)の造営、同12年に新社務所の造営、同13年には中田町の補助を受け「姥杉」保護事業の開始(同16年3月完了)、同14年度には「加茂流法印神楽」が文部科学省ふるさと文化再興事業・地域伝統文化伝承事業の対象となり、また同16年2月には御本殿、同17年1月には随神像2躯がそれぞれ中田町文化財(当時。現在登米市文化財)の指定を受けるなど、境内の整備および文化財の保護が一層進んでおり、町内の氏子はもとより県内・県外各地の崇敬者の参拝が絶えない。
宮城県神社庁公式サイト より。

境内由緒書きはこちら。

参道入口

一の鳥居

神社入口と二の鳥居

三の鳥居。右手は社務所。

参道

四の鳥居

隋神門

隋神門前の狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和7年(1932)8月15日建立)

隋神様

拝殿

拝殿内部

本殿


神饌所

神楽殿

羽黒神社 招魂社

石祠

石碑

陰陽石