陸奥総社宮

多賀城市市川奏社1(平成19年7月22日)

 この神社は東北本線・国府多賀城駅の北約1.2km、加瀬沼の南に鎮座しています。境内入口には、延喜式神名帳陸奥国一百座の社名と現在の鎮座地が列記されています。この社の御祭神は、これら百座の神々なのだそうです。鳥居を潜り階段を上がると、境内奥に落ち着いた拝殿と流造の本殿が建ち、その左手には、所狭しと置かれた小さな陶器の末社群が並び、うっそうとした鎮守の杜の中には、有名な樹齢600年の杉や樹齢200年の白木蓮が聳えています。丁度雨上がりで薄曇りの時間の参拝だったこともあり、鎮守の杜の木々は一層鮮やかな色合いを見せ、陸奥国総社に相応しい落ち着きと品格を備えた素晴らしい神社でした。

 御祭神:八塩道老翁神、奈名塩老翁神、金山彦神、奥津彦神、若狭彦神、八塩道老女神、奈名塩老女神、金山姫神、奥津姫神、若狭姫神、伊邪那岐神、大日霊神、猿田彦神、大国主神、事代主神、伊邪那美神、天照皇大神、大年神、保食神、応神天皇、アラハバキノ大神威、高龍神、闇龍神、ツボケノ大神威等陸奥国一百座の神々
 例祭日:元旦祭・1日 〜 3日、どんと祭(松焚祭)・1月14日(夕刻火入れ)、節分祭(厄歳祭)・2月第1土曜・日曜日、例祭・4月第3日曜日 「 神輿渡御 」、七五三祭・10月下旬 〜 11月
 陸奥総社宮縁起:神亀元年(724)に多賀城に国府が創建されましたが、その後延喜5年(905)に第60代醍醐天皇の勅命により、律令政治の基本となる延喜式(全50巻)の編纂が始まります。その中には(第8・9巻)、日本全国の由緒正しい神社が選別されて延喜式内社として記載されました。その数は全国で2861社(3132座)あり、古来より霊験の著しいとされる名神を祭る名神大社と、その他の小社に分別されました。陸奥国の31郡では名神大社15社・小社85社を数え、国府のある宮城郡には、志波彦神社と鼻節神社の名神大社2社と、伊豆佐比売神社、そして、多賀城鎮護と陸奥国の鎮めである鹽竈神社にたいする執奏社の性格をもつ多賀神社がありました。けれど平安初期以降、多賀神社だけが史上よりその名を消してしまいます。平安中期以降に総社の制度が全国的になるにしたがって、陸奥国においてもこれにならい総社が建立されました。つまり、多賀城にもっとも重要かつ支えである多賀神社の地を総社とし、多賀の神(伊弉諾神、伊弉冉神)を総社中に編入し、あわせて陸奥国内の100社の神々を勧請して、陸奥総社宮が新たに鎮座しました。多賀城国府は平安末期の10世紀後半頃で廃絶しましたが、奥州留守職伊沢氏は三千刈田の斎田を寄せ、後村上天皇が陸奥の太守として多賀の国府で過ごしていたとき、神護祈念をここで懸けました。伊達氏もまた、藩祖政宗公以来、歴代藩主の祈願時には自ら社参する事が例となり、社殿は享保19年(1716)に改築されています。
 明治42年には近隣の荒はゞき神社(荒脛神社、荒覇吐神社)、八幡神社、稲荷神社、南宮神社、日吉神社、大日霊神社、木船神社、貴船神社、多賀神社が合祀されています。(ALLURE(アリュール)参照)
 尚、多賀神社の論社はこの社の他に、多賀城市市川、多賀城市高崎、多賀城市浮島にもあります。

社号標 神社入口
延喜式神名帳陸奥国一百座
入り口階段の両側には、大社15、小社85の計100社の神社名が列記されています。
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境内入口にいる昭和12年生まれの江戸流れ狛犬
阿吽の位置が反対で、時節柄若干厳つい表情になっています。目には瞳が彫られ、体中に瘤が付けられ、毛の流れや爪の先まで、丁寧な作りをしています。
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(石工・志賀清弥 昭和12年(1937)4月15日建立)
拝殿 本殿
本殿左脇の境内社末社入口 所狭しと沢山置かれた末社群
境内社入口前にいる年代不明の狛犬
元々は仙台タイプの、縦置き阿吽の位置が反対置きの狛犬だったはずですが、現在はノーマルな置き方をしているために、前方前脚が後に引かれる形になっています。私は多分江戸後期の1800年代半ばの建立ではないかと思っていますが、阿の三段耳が仙台市若林区日吉神社の狛犬などと似ています。保存状態も造りも大変良い狛犬ですが、殆ど直置きで泥だらけなので洗ってあげたいと思いました。
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神馬舎 境内の様子
境内の様子 社殿前から入口を振り返る
馬頭観音碑