嶋館神社

柴田郡大河原町字千塚前70 (平成26年8月2日)

東経140度44分17.76秒、北緯38度03分46.58秒に鎮座。

この神社は、大河原署の西側70m程の辺り、千塚前の街中、嶋館古墳の後円部に鎮座しております。

御祭神 保食神・猿田彦神・大宮女神

由緒
創建年代は不明であるが、同社に残る額「正一位稲生大明神」その裏に「文永11年甲戌2月22日正二位藤原朝臣経朝」とある。
文永11年は亀山天皇の御宇(1274)で時の将軍北条時宗である。
この年蒙古軍が来寇し、未曽有の国難のあったときでもあった。
本殿の建つ丘は前方後円墳の後円部で前方部には祇園社が祀られている。また「稲生」の額を書いた藤原経朝は当代一の書の妙手であったという。もう一枚の額は「島(山が上)館神社」となっており、裏を見ると「文化14年3月7日左近衛権少将源定信」とある。
文化14年(1817)とはずっと降って江戸時代の11代将軍家斉の時代である。
源定信こと白河楽翁はもと、白河城主、仙台藩主が幼少のため藩は補佐役を堀正敦に依頼していたが、北海道に赴くことになったので補佐役をさらに松平定信に依頼した、それで定信もまた仙台を訪れること廷なったのである。しかし、松平定信がこの額を奉った経緯は不明である。
額奉納の前年、すなわち13年(1816)9月末に来仙し、領内を巡り宮城野に遊んでいる。
このおりなにかの伝手があって寄進したものであろう。
明治41年(1908)雷神社(小山田)、山神社(福田)、水神社(中島)、熊野神社(大谷字上谷前)、の四社を合祀している。
明治の初め嶋館神社を一時新田町の小学校裏に遷祀したことがあったが、幾ばくもなく小島に再祀された。
悪病が流行したので、もとの小島に遷座すべきであるということになったという。
大正5年12月4日、工事費325円で神殿が改築されている。
大正14年、今上天皇御成婚25周年を記念して御輿を新調することとし、森定吉、柳沼菊三、森倉吉、海老原侍五郎、笹谷源四郎が世話人となり氏子の浄財をあつめて奉納された。
昭和3年(1928)1月、佐藤屋七代目の佐藤源三郎が今上天皇即位式御大典記念として、総檜造り銅板葺きの本殿を金3000円で建立して寄進した。
戦争の勃発した昭和16年(1941)12月からは召集をうけた出征軍人はいずれもこの嶋館神社に戦勝を祈願し、武運長久、天祐神助を祈って征途につくのを習わしとした。
またこの神の加護を願って出征遺家族は、せっせと神社詣でを怠りなくつとめた。
しかし国民の祈願もむなしく敗戦の憂き目にあい、荒れた国土と多数の英霊を迎える破目になった。
戦前各学校に下賜されていた御真影を安置する奉安殿も、御真影を奉還した後は学校から撤去しなければならなくなった。
柴田農林学校に安置されていた奉安殿もその処置をしなければならなくなり、嶋館神社境内に移して英霊を祭る国霊神社とすることとし即時移転した。
内部には戦没者の英霊木牌が安置されている。
昭和49年(1974)2月老朽化した拝殿と社務所を建て替えることとなり、御造営奉賛会が結成され昭和50年(1975)に竣工祭が執り行われた。
由緒書きより。

由緒
勧請月詳でないが、古くからこの地に鎮座され、正一位稲生大明神と称した(文化11年2月正二位藤原朝臣経朝書奉納額)その後、嶌館神社(文化14年3月奉納額左近衛権少将源定信書)明治の初、大河原町字新田町に移祀。幾もなく再び現在の境内に復帰した。明治5年3月村社列格、大正7年4月神饌幣帛料供進神社に指定された。境内社八雲神社は文久3年大河原邑豪高橋與右エ門なる者、槻木入間田の八雲神社御神霊を乞奉斎のせらる。国霊神社は、昭和20年1月大東亜戦争終戦の際、柴田農林学校に在置せる御眞影奉安所の交付を受け境内に移築し、町内の戦死病没者の英霊を祀り、堂内に各霊璽を安置している。尚、現在の嶋館神社拝殿及び社務所は昭和50年に改築したものである。
宮城県神社庁公式サイト より。

江戸時代、嶋館神社は大河原村の村鎮守であり、戦前は大河原町の村社であった。創建年代は不明であるが、同社に残る額により文永11年(1274)以前にさかのぼることができる。祭神は保食神、猿田彦神、大宮女神と農業神である。本殿の建つ丘は前方後円墳の後円部で、前方部には祇園社が祀られている。この古墳は5〜6世紀に築造されたもので、当時この地方を支配していた豪族の墓と思われる。規模は長軸35m,高さ5m,周溝の存在は不明である。
大河原町教育委員会

神社全景

鳥居

神額

拝殿

拝殿裏の後円部

本殿


國霊神社