樫岡神社

黒川郡大和町宮床(平成19年7月26日)

 この神社は宮床小の西約200m、「田手岡館跡」に鎮座しています。でも今まで5,000社以上の神社に参拝させて頂きましたが、こんなに探すのに苦労して、社殿が見えるまで不安な神社は無かったように思います。地図には記載があるので探し始めたのですが、カーナビは雲の中を走っているようで空白で何も出てきませんし、ぐるぐる回っても入口らしきものは見あたりません。諦めかけた時、道路の右側で農作業をしている方がいらしたので、「これぞ救いの神」とばかりにお聞きすると、いとも簡単に「嗚呼そこが入口だよ。」指さす先は只の森、何も見えません。折角教えたのにトンチンカンな方向に向かおうとする私達に業を煮やしてか、その方はわざわざ道路まで出てきてくださって指さしたした先は、側溝にかけてある一枚の板…。ここが神社の入り口なのだそうです。「細い道が付いているからそのまましばらく行くと、お城跡の案内板があるから、その向こうに神社はあるよ。」「えっ、細い道って何処?」と内心思いながらも、昔山男だった夫が藪こぎの要領でずんずん入っていくので、その足跡を追って私も森の中に入りました。確かに道と思えば道のような、頼りない踏み跡らしきものは付いていますが、先を行った夫はくもの糸に巻き付かれ気持ち悪がっていました。7・8分歩いたでしょうか? どうにか田手岡館跡の説明板に辿り着いた時には、正直、ホッとしました。でも今まで見てきた城跡とはかなり違います。きちんと整備されているわけではなく、木々が茂る普通の森…案内板がなければ決して城跡とは分からないでしょう。でも、確かにその左奥に社殿らしきものが見えます。石畳も続いています。社殿にたどり着くと、「樫岡神社」の社額も置かれています。良かった〜。宮床伊達家の城内の鎮守社だったのでしょうか? …そこら辺は不明ですが、無事にここまで辿り着けたことを感謝して、私達の参拝は終わったのでした。
 因みに「田手岡館」は、伊達政宗公の孫にあたる宗房公の館跡で、宮床は万治3年(1660)に宗房公が治めるようになってから、伊達家の小城下町として続いてきました。宗房公以来宮床伊達家は、江戸時代が終るまで宮床を治め、宗房公の子である吉村公は、仙台藩五代藩主となり、仙台藩の財政再建に力を尽くし「中興の名君」と謳われています。大和町を治めていた宗房公は、4才の時に伊達氏の鎌倉時代〜南北朝時代からの家臣である田手家の家督を嗣ぎましたが、その後再び伊達氏を名のることを許されたのです。

神社入口 参道の様子
この獣道のような小道が参道です。 格好いいご神木
神社遠景 境内
社額 拝殿
拝殿内の三社殿
左から、稲荷社、皇大神宮、天満宮
田手岡館跡の説明板 田手岡館堀跡