屯岡(たむろがおか)八幡宮

栗原市栗駒八幡116 (平成25年7月31日)

東経140度59分53.23秒、北緯38度48分39.58秒に鎮座。

この神社は、栗駒中学や栗駒南小学校の東側に聳える小さな山の頂に鎮座しております。参道は長く、山道を200m程上った山中にひそっりと佇んでおりました。

御祭神 誉田別尊

由緒
社伝によれば桓武天皇の御代延暦年間坂上田村麻呂の創建で天喜年間源頼義父子東征に当り戦勝を祈り、甲冑を奉納、祭田を寄進した。源義経も平家追討の折当社に祈請した。平泉の藤原秀衡社殿を造営、高良、山王、山神、子守、白山、雲南の六社は末社として創建当時より祀られたと伝えられる。社の西を「屯岡」といっているが、頼義父子が陣営した所で本社も「屯岡八幡宮」といわれた。営ヶ岡とも書く、延暦年間坂上田村麻呂が、蝦夷征討の際に軍団を屯させた所と言い伝えられている。降って天喜年中、源頼義が安倍貞任の追討にあたり、出羽の清原武則の援軍を此処に待って会同した。源頼義、義家父子は、先に貞任の追討にあたり、「これしきの蝦夷共」という気魄で討伐にあたったが、合戦するところ、悉く敗北、特に「黄海の戦」には悲惨なまでの敗退で、生きて逃れた者父子主従六騎だけだったとまでいわれている。この大敗で陸奥守兼鎮守府将軍源頼義も、手も足も出ない有様だった。そこで遂に、出羽(秋田・山形)の俘囚の長である清原武則の援軍を求めて、やっと清原氏が一万五千の援兵を送ってよこした。時に康平5年7月である。秋田仙北の本拠地から鬼首に出た清原の援軍は、首を長くして待つ頼義軍と、この屯ケ岡に会合、軍議の結果、7陣に編成したが、1、2、3、4、6、7陣は皆清原氏の軍兵であり、第5陣の本隊は、頼義、武則の混合兵団であった。これをみても如何に清原軍が大勢であり、陸奥守頼義軍の兵数が少なかったかが知れると思う。ともあれ志気大いに揚り、衣川の柵から厨川柵を最後に、安倍貞任を討取るまで、僅か2ヶ月、康平5年9月には安倍氏が滅亡した。この乱後清原氏が鎮守府将軍に任命され、やがて藤原清衡が後3年没後、清原氏に代わって平泉藤原時代を築くようになるのである。此の没後、源頼義が丘陵上に八幡神社を勧請したのだといわれている。社宝の大鎧は、宮城県内で最も古いといわれる大鎧で、足利時代前期を下らない物であり、又その後平泉時代秀衡が小治山源東寺を神護寺として建立した際、其の家臣の寄進した物だという鰐口が現存する。「延慶4年正月5日、大檀那大麦生藤内太郎国正」の刻銘があり、これも亦県内では、松島五大堂の鰐口(乾元2年)に次ぐ古い物である。丘陵の北傾面上野一帯は当時大軍の宿営した場所である。
宮城県神社庁公式サイト より

道路脇に立つ社号標

道路脇に並ぶ石碑

暫く行くと見えてくる案内板

参道

一の鳥居 神額

参道

二の鳥居

参道

拝殿

阿吽が全く非対称の変り狛が百合の花に囲まれていました。拡大写真はこちら。
(年代不明)
向拝の龍と左右の木鼻

本殿

境内に咲く百合