駒形根神社

栗原市栗駒沼倉一ノ宮7 (平成25年7月31日)

東経140度56分53.43秒、北緯38度52分08.38秒に鎮座。

この神社は、宮城県北部、岩手の県境に近い栗駒沼倉に鎮座しております。457号線を北上して行き、沼倉局の700m程北を少し西側に入った所に案内と社号標が立っています。

主祭神 大日孁尊、天常立尊、吾勝尊、國常立尊、天津彦番邇々藝尊、神日本磐余彦火々出見尊

由緒
古来、日宮・大日社・駒形社と称し、俗にお駒様と親しまれている。社記に『日本武尊御東征の折、大日孁尊外五柱の主神に祈願創建』奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。日は火に通じ火山を意味し、私達の祖先が山のもつ神秘性と霊威に感動する姿が偲ばれ、山岳信仰を母胎に自然崇拝・鎮魂の祭礼が起こり、神社を形成してきた。大和朝廷の蝦夷平定に伴い社勢隆盛。延暦20年(801)坂上田村麿奥羽鎮定を祈願。四大門(東は一関三島・西は花山・南は尾松大鳥・北は秋田仙北)を建て、自ら駒形根大明神の大額奉献。次いで仁寿元年(851)神階正五位贈、清和天皇貞観元年(859)勅使下向正一位贈称号賜勅宣日宮が史料に散見し、延喜式(901〜)神名帳登載。後、源氏、平泉藤原氏崇敬篤く武具祭田献納。社殿壮大。四大宮司三十禰宜六十社家を容し、奥羽総鎮守として信仰を集め(親蹟聞老志)、お駒精進講・お駒講・駒形講等の駒形信仰の源流となった。嘉祥3年(850)駒形山大昼寺建立。やがて奥羽一帯修験の地となり神仏混淆に入る。889年後の元文4年(1739)仏教から分離、御巡幸始まる。寛保3年(1743)桜町天皇より御宣命と御宸筆の扁額を賜る。明治4年郷社に列する。昭和3年建立の奥宮が朽ちて50年。昭和62年、山頂に奥宮再建。歴史に埋もれていた当神社が多くの人々に見直され、農畜の神。家内安全商売繁昌の神。特に、栗駒の山名と残雪の駒姿。大昔から馬産地であった馬の信仰が根強く残り、現代の車社会で交通安全の神としても効験著しいと脚光を浴びることとなった。
宮城県神社庁公式サイト より

宮城県指定無形民族文化財
駒形根神社の巡幸神事
古来、東奥鎮護の一の宮として栗駒山頂に奥宮を、沼倉一の宮に里宮を祀る。
日本武尊東征の折、大日?孁尊外六柱の主神に祈願創建。日宮と称し延喜式神名帳に登載。 東奥186邑の総鎮守。後、桓武天皇延暦年間、坂上田村麿東征祈願、大勝を得て駒形根大明神の大額奉献。清和天皇貞観元年(849)勅使恵美朝臣下向。正一位勅宣を賜わる。
降って、元文五年(1740)総代千葉孫左衛門上洛。寛保三年(1743)櫻町天皇御宣命拝受。以後、祭礼には御宣命奉持の行列を模して神輿(みこし)渡御を行い。 明和三年(1766)神道管領吉田家御下渡祭式の法により、勅使下向の故事を偲び、ご巡幸の諸式が定まって今日に至る。
ご巡幸の供奉割は氏子の家系によって定まり、忌事をもつ家は参加しない定めである。 行列は陣笠騎馬に続いて、稚児、乙女、弓、幡、矛、麻裃古人緒役に警護され、神輿・御宣命を中心とする大行列が一日中、古式豊かにいかめしく練り歩くのである。・・・・
境内由緒書き より

「勅宣日宮駒形根神」と書かれた社号標と社参道入口。

一の鳥居

参道

神門

更に続く石段

頭と尻尾がパンチパーマの狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

石段

拝殿

神額

拝殿内部

本殿


参道右手の末社

末社を護る可愛いはじめ。拡大写真はこちら。
(年代不明)

参道左手の末社

馬頭観世音碑