平野神社

栗原市若柳川北新町裏290 (平成25年7月31日)

東経141度08分04.49秒、北緯38度46分26.95秒に鎮座。

この神社は、栗原市役所若柳総合支所の北東1.2km程の辺り、若柳の街と水田の境近くに鎮座しております。

御祭神 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこ)(仁徳天皇)

由緒
鎌倉時代文治5年秋8月(1189)葛西平清重下総国(千葉)葛西荘に居住の時山城国(京都)より平野神社の御分霊を勧請し尊敬せり。後に清重7代孫葛西陸奥守平高清、奥州七郡に封ぜられ登米寺池邑に居城し、建武年中(1334-37南北朝)国家安全のため、下総より当時高倉荘谷地要害邑に遷座した。天正3年(1575)葛西壹岐守晴信神領50町を寄進し永く武運長久を祈願した。神佛混淆時代は「平野山若柳寺」と稱し寛永元年(1623)羽黒派明学院を開院し歴代領主はもとより近郷近在の人々から篤い崇敬を集め隆盛を極めた。明治5年3月村社に列格し明治40年には幣帛供進社に指定された、(封内名跡志)迫川堤防拡幅工事と街路事業とにより、やむなく移転改築を計画し、平成5年県と補償契約を締結、移転事業に着手、先づ、鎌田七郎氏大内尚氏鎌田清一氏より美田を心快く譲り受け新境内地となし、農振除外、開発計画の許可を得、平成7年造営工事を起し平成8年4月完工、社殿を始め若柳天満宮・手水舎・神楽殿・祓所・社務所等の新築、付属建造物の移築に着工した。平成9年9月総べての工事が完成し、同年9月26日深夜古式による遷座祭を齋行、名実共に新しい地への移転新築工事が完成した。平成9年10月竣功祭、例祭を齋行し、近郷にない荘厳な神社となった。社殿装飾・燈籠・狛犬・鈴緒・樹木等の奉納が相継ぎ鎮守の森の姿が逐次整い、平成11年12月工事終了奉告祭を執行し御神恩に感謝し精進を誓った。茲に、平野神社の縁起と移転新築工事の推移とを誌し氏子崇敬者の眞心に深く感謝の誠を表し遷宮の礎を建立する。 現在の町名である「若柳」も平野神社から、その由来をうかがうことができる。社殿の鳥居をくぐった境内にある石燈籠に刻まれた「谷地要害村」は、この地域が「若柳」となる前の地名を表すもので、石燈籠に「谷地要害村」と刻まれてあるのは若柳町にある神社の中でもここだけ。この石燈籠は昭和30年ごろ、町の文化財に指定された。寛永(1623)元年に開院したとされる羽黒派明学院「平野山・若柳寺(じゃくりゅうじ)」が併設されており、このときすでに「若柳」の地名が存在していた。農民一揆では、平野神社が集結地となり当時の宮司が先導的な役割を果たすなど、同神社は県北の穀倉地帯である「金成耕土」の中心となる社として機能してきた。
宮城県神社庁公式サイト より

社頭

鳥居

神額

境内

拝殿

神額

拝殿内部

本殿


若柳天満宮

参道途中、対象に作られてないので互いにそっぽを向く不思議な狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

社殿

神額

縦置きの出雲型狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

稲荷社

石祠