鹿島神社

加美郡加美町赤塚八番-14(平成19年7月26日)

 この神社は羽後街道・国道457号線を北上して、鳴瀬川を渡り、すぐの信号を右折。鳴瀬川に沿って157号線を東に向かうと約900mで土堤下左に鎮座しています。大きな鎮守の杜に囲まれ、奥深い境内はとても良く整備され、手入れが行き届いています。村社とはとても思えないほどの格と神域に相応しい雰囲気が感じられました。又この社には鹿島神社特有の「要石」が祀ってあります。「要石」は武甕槌神の象徴として、国家の鎮護の石剣として祀られており、地下にもぐった鯰の寝がえりだとされる地震ナマズを永遠におさえていると云う言い伝えがあります。

 御祭神:武甕槌神、倉稻魂神、誉田別尊、天照大神
 例祭日:1月1日・歳旦祭、1月14日・どんと祭、1月15日・小正月(厄年祓い)、2月11日・紀元祭、5月10日・春期例大祭、10月10日・秋季大祭、10月〜11月中・七五三祝祭、11月23日・新穀感謝祭
 由緒:延暦21年(802)頃、征夷大将軍坂上田村麻呂東征の際、奥州一宮塩釜神社左宮(鹿島の神)を勧請し創建されたと伝えられています。当時は四日市場南元宿小松塚の地にあり小松神社とも称されていました。
 南北朝期、貞和4年(1348)大崎地方の領主となった斯波家兼公が、郡中に5人の祀官を置き、社の発展に力を注ぎました。この時初めて神事を行い、現在も毎年9月9日には「湯立て」の儀を執り行い、翌10日に宮城郡松ヶ浜に神輿を下し、海水で禊ぎをし、還って流鏑馬の式をし、盛大に祭礼を行うのを例としました。
 その後代々の領主に篤い崇敬を受けていましたが、大崎氏滅亡後は一時荒廃し、御神体は小野田本郷滝庭奥に避難していました。やがて伊達氏の時代となり、元の社地に戻れ、代々の藩主から崇敬を受けるようになり、社殿に伊達氏の九曜紋を使用できるようにもなりました。寛永17年(1640)には鳴瀬川の水路移動による水難を恐れ、現在地に遷座し、中新田、四日市場、雑色目、下狼塚、上狼塚、城成、羽場、菜切谷の八村の鎮守となりました。その後も藩により度々の社殿の新築改修などが行われました。
 明治5年村社に列し、明治43年には、大崎八幡神社、多川稲荷神社、神明社を合祀しました。

社号標 神社入口
参道脇の石碑
参道の様子 神楽殿
町指定天然記念物・ご神木の大杉二本 長床
拝殿前、年代不明の江戸流れ狛犬
この辺りで江戸流れを見かけるのも珍しいですし、写真写りは悪いのですが、この狛犬は本場江戸に置いても、かなり出来の良い狛犬として評価されること請け合いです。品の良い顔立ち、流れるような毛の流れ、姿の良さ滑らかさ、全体のバランス、どこをとっても文句の付けようがありません。
狛犬の拡大写真はこちらで
狛犬に気をとられて
夫は拝殿の写真を撮り忘れたようです。
(ごめんなさい)
拝殿内の様子
本殿鞘堂
拝殿の挙鼻・龍
拝殿の木鼻・狛犬
境内社 境内社
不思議な写真
同じ境内社を撮した上の写真は、夫が撮影したものです。先ず私はこの場へ来た時に動悸と目眩を感じました。少し佇んでいると何も感じなくなったので、この写真を撮ろうとしたのですが、この場所ではどうしてもピントが合わず、強引にシャッターを切ったのがこの写真です。その後、写真の出来に自身がなかった私は夫に変わって貰いましたが、夫は何事もなくスムーズに撮影できました。一体何が起こったのか、未だに理解の範疇を越えた現象でした。
要石

龍神碑