北畠神社

津市美杉町上多気1148 (平成26年5月10日)

東経136度18分06.24秒、北緯34度30分55.03秒に鎮座。

この神社は、建武中興十五社の一社で、津市と言っても随分と山の中、津市の中心部の南西25km程、南朝の北畠氏館跡に鎮座しております。

祭神 北畠顕能公
配祀 北畠親房公・北畠顕家公

由緒
建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。時に延元元年(1336)12月。以降57年間を世に南北朝時代と言う。
北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近に在ったが動乱に際して自ら陣頭に指揮をとり、足利勢と対決した。大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元3年5月弱冠22才で阿倍野(大阪府)の露と消えた。
神皇正統記は親房は常陸國の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた史書である。
顕能は興国3年(1342)に戦略上の拠点として、この地に霧山城を築き伊勢国司に任ぜられた。この位置が当時の居館の跡である。館は多気御所又は北畠御所と呼ばれていた。
その生涯58年のうち、実に45年の歳月は南朝護持のために捧げられたものである。大小の合戦60数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。弘和3年(1383)7月28日多気に没す。以後9代二百数十年に亘って、伊勢国司は一志・飯南・渡会・志摩の南勢五郡と紀伊、伊賀、大和に及ぶ領域に善政を布いたが天正4年(1576)11月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教は三瀬の館(多気郡)に於て殺され、北畠氏は滅亡した。
寛永20年に一族の末裔鈴木孫衛家次この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。昭和3年11月天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが終戦とともに廃せられた。
境内由緒書き より

北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った。なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。
ウィキペディア より

参道入口

一の鳥居

参道

二の鳥居

手水舎

拝殿

拝殿正面天狗面

拝殿内部


留魂社(北畠一族並に家臣・郎党・農民の戦没者を祀る)

多藝神社


庭園

北畠顕家公

絵馬