松阪神社

松阪市殿町1445 (平成26年5月10日)

東経136度31分39.64秒、北緯34度34分13.62秒に鎮座。

この神社は、松坂駅の西1.3km程の辺り、松阪城跡の南側に鎮座しております。

御祭神 誉田別命(八幡さま)・宇迦御魂神(稲荷さま)
合祀祭神 合祀祭神 天照皇大神・伊邪那岐尊・伊邪那美尊・建速須佐之男尊・天御柱命・國御柱命・稚日女命・栲幡千々姫命・豊受大神・高木大神・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘売命・多岐都毘売命・天棚機姫命・思兼神・天之忍穗耳命・蛭子命・大山衹神・市寸嶋姫命・天之菩卑命・少名彦命・素菟命・火霊神・金山彦命・猿田彦命・安徳天皇・大國主命・事代主命・上筒男命・中筒男命・底筒男命

御由緒
当社は古来「意悲神社」(おいじんじゃ)と称し、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社九座の一座と伝えられているが、その創立の年代は詳かではない。室町時代末期の天正16年(1588)蒲生飛騨守氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森(古くは意悲の森)と呼ばれていた丘に築城された時に、この森の南の丘に鎮座していた当社を新たに御造営され、城の鎮守社と定められた。氏郷は天正12年(1584)秀吉公から伊勢の松ヶ島城主に任ぜられ、近江の國日野町から松ヶ島に移ってきたが、その時この宵の森(現、四五百之森)の地の利に着目して、この森に築城を急いだ。又この矢川の庄を「松阪」と名付けて、城下町を作り始めた。そして、松ヶ島から強制的に寺社や商人を「松阪」へ移住させ、近江の日野商人も招いた。楽市楽座を実施して誰でも自由に商業を営ませた。又その頃まで海岸よりにあった、伊勢参宮街道を松阪の中央へ引き入れた。天正16年(1588)に城が完成し、氏郷は入城して「松阪城」と名付けた。この時当社に、新たに武士尊崇の神である「正八幡」を勧請して、誉田別命(応神天皇)を合わせ祀り「八幡宮」と唱えた。
後世、江戸に雄飛した伊勢商人が生まれた町が松阪であり、近世の商都松阪の繁栄についても蒲生氏郷は、その基をつくったので松阪の功労者と云える。その後、氏郷は会津若松へ移封となり、文禄4年(1595)古田兵部少輔重勝が、松阪城主となって入城し、更に自らの信仰していた宇迦之御魂神(お稲荷さん)を勧請して、当社に相殿としてお祀りすることになった。
その後、元和元年(1619 江戸初期)紀州藩徳川頼宣の領地となり、以後、明治維新までの250年余り松阪城は、紀州藩伊勢領18万石の要地となり、城代の居城となった。この長い年月、当社の神官を務めたのは、飯高氏の子孫と云われる笠因(カサヨリ)家という社家が代々当社の社司を勤め、雨龍神社も兼務していた。代々の紀州藩主は、松阪着城の都度必ず、先ず当社に参拝し、又毎年1月元旦には、常に重臣を名代として参拝させられた。明治維新となり、明治2年(1869)天皇伊勢行幸の砌、当社に名代として北大路殿を奉幣使として代参させられるなど、また明治4年(1871)には、郷社に列せられ遠近の人々の尊崇を集めた。明治41年(1908)には、時の政府の方針により全国で神社合祀が行われた時、松阪に於いても各所に祀られていた17神社が、当社に合祀され、社名を「松阪神社」と改名が許可され、今日に及んでいる。・・・・・
境内由緒書き より

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社殿より200m程東の参道入口と一の鳥居

参道

二の鳥居

参道

三の鳥居

境内

拝殿

拝殿内部

本殿


小名彦那尊御社

白龍大神

皇居遥拝所・神宮遥拝所

御神木、長寿樟