皇大神宮(内宮)

伊勢市宇治館町(平成18年3月31日)

「日本書紀」によると、崇神天皇5年(紀元前93年)に疫病が流行し、翌年には、民が多く流離したり反逆を起こしたりするようになった。その勢いは天皇の徳をもってしても抑えきれなかった。事態を憂いだ崇神天皇は、天神地祇に朝夕とお祈りした。以前より天照大神・倭大国魂神を宮殿で祀っていたが、しだいに天皇はその2神の神威を恐れるようになり、供に住むのが不安になり、巫女らに託すことにした。天照大神を豊鍬入姫命に託し、倭大国魂神を渟名川入姫命に託した。倭大國魂神は市磯長尾市に託して祀らせ、豊鍬入姫命は天照大神を大和国の笠縫邑に祀った。 次の垂仁天皇の代になって、垂仁天皇25年(紀元前5年)3月10日に天皇は豊鍬入姫命に代えて、倭姫命に天照大神を祀らせた。倭姫命は天照大神が鎮座するべく所を探して、諸国をまわり、最後にここ、伊勢国に着いたという。

約六十年の歳月、二十五回の遷宮を繰り返した天照大神。我が孫をして大国主命より国譲りをさせた、我が国の最高神たる天照大神ならどこでも選り取り見取りだったような気がします。何でこんなにお悩みになったのでしょうか。さらに迷いに迷ったあげく、やっとたどり着いたここ伊勢でも心安らかに過ごすことは出来なかったのでしょうか。「吾は高天原に坐して見し求ぎ賜し処に鎮まり坐ぬ。しかれども吾れ一所のみ坐すはいと苦し、しかのみならず大御饌も安く聞こし召さず、丹波国比治の真奈井に坐す等由気大神を、我が許に連れて参れ。」要するに、一人ではさみしいとおっしゃたようです。かって弟が乱暴狼藉をはたらいた時もしかるどころか、自らお隠れになってしまわれました。最高神でありながら決して権力を行使しない、実に我が国に相応しい、気の小さな女神様のようです。

五十鈴川に架かる宇治橋と、橋の上から見た五十鈴川。五十鈴川は別名を御裳濯川とも言う。この地に着いた倭姫が汚れた裳の裾を濯いだところから名付けられたといわれる。手前に見える鳥居は、外宮の旧正殿の棟持柱が使われ、内側の鳥居は内宮の旧正殿棟持柱が使われという。さらに20年たつと、内側の鳥居は鈴鹿峠のふもとの「関の追分」、外側の鳥居は桑名の「七里の渡」の鳥居となり、ともに正殿の棟持柱となって以来、60年のお勤めを果たすという。リサイクル完備のシステムです。

宇治橋を渡り、右手に続く参道。もうここは内宮神苑。早朝の為かとても静です。
火除橋と第一鳥居 手水舎

五十鈴川と御手洗場。左手の石畳は、5代将軍徳川綱吉の生母、桂昌院が寄進したもの。かって洛北を旅していたら、桂昌院寄進の寺院が結構あり、我が子綱吉が子宝に恵まれるように出身地の寺院に寄進を重ねていたものと思っていました。流石将軍家の御生母、ここにも寄進していたようです。因みに、桂昌院の本名はお玉。昼飯を食べながら、飯屋のママさんとそんな話をしていたら、「今でもこの辺にはお玉さんがいっぱいいるんですよ。向かいのお婆さんもお玉ってゆうんですよ。」...........現代版玉の輿をねらっているだろうか。

石階下より拝する皇大神宮。垂仁天皇26年にご鎮座されてから2000年、奥にあるご正殿に、天照坐皇大御神がお鎮まりになっています。しかし中は撮影禁止、残念。でも雑誌等にはしっかり写真が載っているのに...........

古殿地、正宮の隣にあり次の正宮の予定地。 古殿地より望む本殿
古神宝類を納める外幣殿 荒祭宮(あらまつりのみや)
神楽殿 境内の雰囲気
島路川に架かる風日祈宮橋 風日祈宮