豊受大神宮(外宮)

伊勢市豊川町(平成18年3月31日)

豊受大御神をお祭り申し上げる豊受大神宮は、内宮に対して外宮とも申し上げます。雄略天皇は、夢の中で天照大御神のお教えをお受けになられ、豊受大御神を丹波の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今からおよそ1500年の昔のことです。 豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。 内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。以上伊勢の神宮公式サイトより。

現在は外宮で参拝してから内宮を参拝するようです。初詣の観光パンフレットもそのようになっているようです。このくだりを書くにあたって、東海道中膝栗毛の伊勢参宮のあたりを読み返ししたら、弥次喜多の両名は内宮から参拝していました。どうも江戸時代と現在では、少し違うようです。当時、外宮と内宮の間に位置した古市には遊郭があり、一日中三味線の音の絶えることはなっかたようです。参拝後精進落としと称して遊んだ男どもの散財で、大いに栄えたらしい。最盛期には70軒もの妓楼が並び、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭の一つと言われる位だからすごい。最初からこちらが目的の男もいたりして。「伊勢参り、大神宮にも、ちょっと寄り」という川柳があるほどだから想像は当たっているかも。もっとも、相模の大山、信州の諏訪といった参拝者が多数集まる所には必ず遊郭があり、伊勢のみ特別と言うことはありません。「お伊勢いきたや伊勢路がみたいせめて一生に一度でも 」と伊勢音頭にも歌われた、お伊勢参りは当時の人(男?)の夢だったのでしょう。

やや脱線してしまいましたが、内宮よりも一段と深い杜に囲まれ、静寂な空間を作り出しています。現代人が神域=静寂と結びつけたくなるのは、普段騒音に囲まれているからでしょうか。静に手を合わせていると、心が落ち着いて来ます。西行が「何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの 涙こぼるる」と詠んだのも、納得出来ます。

境内入り口 右正宮となっています
掘川に架かる火除橋 さらに参道は続きます
正面右手が正宮です 正宮、内宮より鰹木が1本少なく千木が外削

正宮は写真撮影禁止です。しかし別宮の土宮はご覧の通り禁止ではありません。規模が違いますが、基本的な造りは同じとおもわれます。ここに掲載出来ない御正殿はそれぞれ想像で補って下さい。

風宮。御祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと) 級長戸辺命(しなとべのみこと)と聞き慣れないお名前です。でも内宮の風日祈宮と同様に、蒙古襲来の文永・弘安の役の際、ご神威によって神風が起り、襲来した敵軍10万の兵を全滅させ、未曽有の国難をお救いになったご霊験に応えるべく正應6年(1239)3月20日、太政官符を以て宮号宣下を発表せられたことによると伝えられる。

98段の石階を上がると、檜尾山に南面して、外宮の第一別宮である多賀宮が鎮座して居られます。御祭神は豊受大御神荒御魂(とようけおおみかみのあらみたま)。