官舎神社

伊勢市小俣町本町1446 (平成26年5月11日)

東経136度40分26.30秒、北緯34度29分54.64秒に鎮座。

この神社は、JR参宮線・宮川駅の南西200m程の辺り、離宮院公園の西側に鎮座しております。

御祭神建御雷之男神・経津主神・天見屋根命・多紀理毘賣命・多岐都比賣命・建速須佐之男神・天之菩卑能命・活津日子根命・倉稲魂命・大田命・保食神・姫神・市木嶋比賣命・猿田毘古大神・天忍穂耳命・天津日子根命・熊野久須毘命・大己貴神・大宮女神・金刀比羅神

この社は、もと大宮司家中臣民の氏神だったとされている。
天平勝宝8年(756)に、ときの大神宮司従五位津島朝臣子松が、奈良の春日社を当地津島崎(大仏山東麓、いまの通称津島堰あたり)に中臣氏の祖神として勧請し、中臣社または春日社としてまつったのに始まる。
桓武天皇の延暦16年(797)、離宮院が伊勢からこの地に遷し造営さ札たときの神宮祭主大中臣朝臣諸魚らが、津島崎から中臣氏社を離宮院の境内に奉遷し、式内官舎神社と改称した。社号は、その社地が離宮院の官舎のそばて、官舎から管掌する神社であったからだと言われている。
承和六年十月、離宮院の大火災があったが、当神社はその災を免れ、長く中臣民の氏神祭がとり行われていた。しかし、戦国時代の世の乱れに伴い、離宮院の荒廃とともに社殿も朽ち果て石塁だけが残ることとなった。
寛文3年(1663)、大宮司大中臣精長がその石積みを見つけ、わが氏神の旧跡だと知って小祠を再興、明治の初めまでひところは十人の禰宜が勤仕するほどだったが、時の流れとともに伊勢に移住し、再びさびれていった。幸い当町出身の神職吉村氏がこの有様を憂い、かろうじて社の維持に努めた。
その後、明治12年(1879)9月24日村社格を指令さ札、同43年(1910)3月26日には各字の無格社をあわせ祀る小俣神社(八柱神社)を合祀、昭和19年(1944)11月20日県社に昇格されたが、同21年(1946)の社格廃止により、同27年(1952)12月20日宗教法人官舎神社となった。
当神社は「離宮さん」「旅の宮」の愛称で親しまれ、昔は伊勢の要人たちまでが旅へ出るときわざわざ官舎神社へお参りをし、お受けしたお守りをしっかり肌身に着けて出発したという。また、いつのころからか「大漁宮」とも呼ばれ、いまも白塚や河芸、伊勢の漁業者が海上安全・大漁満足の祈願に訪れている。
由緒書きより 境内由緒書き等はこちら。

参道入口

参道

境内

拝殿

本殿


末社

皇大神宮遥拝所

皇居遥拝所

獅子岩