離宮八幡宮

乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1(平成24年1月4日)

東経135度40分56.53秒、北緯34度53分18.86秒に鎮座。

 この神社は東海道本線・山崎駅のすぐ南に鎮座しています。
 67号線沿いに社号標と惣門が建つ入口があり、道路との境界はお寺の様な土塀で囲まれています。惣門を潜ると参道は右に曲がり、鳥居を潜ると左に手水舎、右には油祖像や全国油脂販売店標識、本邦製油発祥地碑、河陽宮故址碑等の石碑が配され、正面に中門が建立されています。境内正面には唐破風付きの豪華な拝殿、透かし塀内に本殿が建立され、右には若宮神社、左境内には多数の境内社が祀られ、宝塔の大きな礎石は往時の華麗な建物の姿を想像させます。又霊泉・石清水はこの社の創建の礎となったもの…今も清らかな水を湧き出しているようです。
 

 御祭神:応神天皇、酒解大神(大山祇神)、比売三神
 祭礼日:元旦・歳旦祭、1月・どんど祭 左義長、4月・春の例祭 日使頭祭(湯立ての神事)、9月15日・秋の例祭 放生会、11月・七五三詣、大晦日・年越祭
 境内社:若宮神社、武内社、天照皇太神社、気比宮、蛭子神社、鹿島神社、住吉神社、腰掛天神社、稲荷神社、高良社、小禅師宮、高天宮神社、三社神社他
 由緒:平安時代(794〜)の始め、清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を見、神のお告げをお聞きになりました。そのお告げとは国家鎮護のため、九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座せよというものでした。そこで清和天皇は僧の行教にそれを命じます。天皇の命を受け、八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の津(当時淀川の航海のために設けられていた港)で夜の山(神降山)に霊光をみました。不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したのでここにご神体を鎮座し、社を創建することにしました。貞観元年(859)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されました。ここは嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました。
 貞観年間、時の神官が神示を受けて「長木」(右図)という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)油の製油を始めました。当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。また、油座として離宮八幡宮は油の専売特許を持ち栄えてゆきます。諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。
 平安、鎌倉、室町時代の我が国経済界で貢献し、一時は「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めた離宮八幡宮ですが、織田信長の楽市楽座の政策で打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになるとこれに市場を奪われ徐々に衰退してゆきます。
 幕末の元治元年(1864)「禁門の変」(蛤御門の変)では尊皇攘夷派である長州藩駐屯所となり、幕府・薩摩連合軍側の砲撃にあい、被災しました。そのため、水瀬川から円明寺に及んだ広大な神領は兵火で焼け野原となってしまいました。
 明治9年(1876)東海道本線(現JR)の京都神戸間開通により社地の大半がその用地と化したため、神領の規模が大幅に縮小されました。明治12年(1879)になって崇敬者の寄進により社殿が再興せられ、昭和4年(1929)に改築されて今日に至ります。兵火を免れ現存する建築物は「惣門」「東門」(共に大山崎町指定文化財)のみとなっています。
(「離宮八幡宮公式サイト」より)


社頭
惣門(大山崎町指定文化財) 社号標
「府社 離宮八幡宮」
参道の様子
明神鳥居
境内入口
中門前にいる昭和7年生まれの初期岡崎現代型タイプ
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和7年(1932)1月建立)
中門
境内の様子
拝殿
拝殿内の様子 本殿正面
透かし塀と本殿

境内左側の境内社全景
境内社:三社 境内社:高良社
境内社:腰掛天神社 境内社:小禅師宮
境内社:稲荷神社・高天宮神社・住吉神社 境内社:気比宮
境内社:鹿島神社 境内社:蛭子神社
境内社:天照皇太神社 境内社:武内社
手水鉢
石清水
宝塔礎石
本殿右の境内社:若宮神社
河陽宮故址 油祖像
本邦製油発祥地碑