幡日佐(はたひさ)神社

南丹市八木町氷所中谷山11-73 (平成31年4月5日)

東経135度33分23.07秒、北緯35度05分30.37秒に鎮座。

この神社は、JR山陰本線・吉富駅の東5km程の辺り、八木町氷所の街外れに鎮座しております。式内社で、旧社格は村社。神吉にあった氷室神社を合祀したため、「幡日佐氷室両神社」とも呼ばれているようです。

御祭神 品陀別命・氷室命

由緒
かつて、当社裏の峠を越えた神吉下村(現・南丹市八木町神吉)には、朝廷の氷室(氷を貯蔵し夏に献上する場所)が設けられていたとされる。社伝によると、その地には「氷室大明神」が鎮座していた。その後、時期は不明ながらその分祠を氷所に立てたのが当社の創建という。当初は、現境内の南方に位置する故宮(古宮)の地に営まれ、「氷所大明神」と称したという。
そして和銅年間(708年-715年)、近在の美濃田村(現・亀岡市美濃田)にある幡谷山に8流の幡が天から下り、そのうちの1流は氷所大明神の境内樹にかかって金色の光を放っていた。これを機に、以後は社名を「幡久」と改めたと伝える。

平安時代中期の『延喜式』神名帳では丹波国船井郡に「幡日佐神社」と記載され、式内社に列している。同じく『延喜式』には10ヶ所の氷室が記載されており、このうち丹波国桑田郡の「池辺」の氷室が当地の氷室に比定されている。また、この氷室は謡曲「氷室」の舞台にもなった。
天正19年(1591年)、故宮の地から移転し社殿が造営された。神吉下村の氷室大明神が戦国の戦乱で焼亡していたことから、寛文9年(1669年)に同神を合祀し、以後は「氷室幡久両社大明神」と称していた。
明治6年(1873年)、近代社格制度において村社に列格した。明治9年(1876年)、式内社の社名に基づき現在の「幡日佐神社」に改称した。社殿は大正10年(1921年)に焼失し、大正13年(1924年)に再建された 。
ウィキペディア より。

元明天皇の和銅年間、中谷山より光芒燦として幡のたなびくが如き霊感あり、天長地久の瑞兆なりとして氷所明神の名を幡日佐大明神と改め、故宮よりこの神域に奉遷した寛文9年(1669)氷室命を合祀し、古来式内社として弘く崇敬を聚めた例祭は10月21日で、神功皇后三韓征伐の史實に倣い神幸の神事流鏑馬など古式によって伝えられ穀物の豊凶を卜うことになっている。
境内由緒書き より。

参道入口

神額

参道

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(皇紀2600年記念 昭和15年(1940)建立)

舞殿

本殿

本殿内の陶器製狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和12年(1937)建立)


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