御髪神社

右京区嵯峨小倉山田渕山町10−2(平成19年1月2日)

 この神社は小倉百人一首で有名な小倉山の南東麓、嵯峨野小倉池のほとりに鎮座する、日本で唯一の髪の神社です。

 御祭神: 藤原采女亮政之公
 例祭日:4月17日・春の大祭、11月17日・秋の大祭、毎月17日・月次祭
 由緒:祭神は藤原鎌足の末孫、従五位藤原采女亮政之公で髪を副神として納祭する髪塚が有る。亀山天皇の御代(1259〜1274)に、藤原鎌足の末孫である北小路左衛尉 藤原基晴卿が宮中の宝物係として仕えていたが所管の宝物を紛失した責任をとり、 諸国行脚し文永5年(1268)下関に居を構えた。その三男の政之公が生計のために髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされる。
(神社案内板より)
 御髪神社公式HPには更に詳しい経緯が書かれており、それによると「亀山天皇の頃に、京都の警護役人で藤原晴基という武士が天皇の宝物係をしている時、九王丸という宝刀を紛失したことによってその職を解かれた。晴基には3人の子供がいて、長男は反物商人、次男は染物師となって、京都で宝刀を探すことになった。晴基は三男の采女亮政之を伴って諸国を歩き下関において十数年の間、髪結床をしながら、宝刀を探したという。その後、政之公は居を鎌倉に移した後、建武2年(1335)に没し、従五位を賜った。のちに家康が武田信玄と遠江の三方カ原において戦いに敗れて、浜松に戻る途中、天竜川が大雨で満水となって渡河に苦しんでいるとき、采女亮十七代の孫、北小路藤七郎が通りかかり浅瀬をさがしながら天竜川を案内した。そこで家康の供に加わると共に家康の髪を結い、銀一銭と脇差などを賜ったとされている。その時に「一銭職」の名前を許され、諸国通行勝手という許しを受けたが、その後の慶長9年(1604)に江戸赤羽に移り住み、それから四代目幸次郎の頃に江戸八百八町に、一町一軒の髪結床の許しを受けた。」ということです。昭和の始めまで、全国の美、理容業者は、散髪と始祖の冥福を祈るため毎月17日を定休日としていたそうです。 

神社遠景 小倉池の様子
神社入口 社殿
社殿両脇を守る狛犬ならぬ生猫
髪の霊を祀る髪塚