吉田神社

左京区吉田神楽岡町(平成15年1月4日)

神道は平安時代藤原氏の隆盛と共に繁栄したが、南北朝の時代を経て、応仁の乱以後は荒廃した。そこに出て来たのが吉田兼倶。ここを詣でれば全国全ての神社に詣でたのと同じ功徳があると説き、全神道の頂点に吉田神社を置く唯一神道を唱えた。兼倶は宗教家としての才能の外に、政治にも天才的才能を発揮した。兼倶により吉田神社は神道における総本山的地位の基礎を築き、以後吉田家は幕末まで神祇伯白川家を抜いて神社界を支配した。

八卦に基ずくという八角形の神殿。何とここにお参りすれば、日本全国の神社に参拝したのと同じ事となるという、驚くべき神社なのだ。

お参り後、写真を撮っていたら、宮司さんが五分程で良ければ中へ入られますか?....勿論、入らせて戴きました。其の上、お話によれば、この吉田神社は明治の時、かっての社料を半分程に削られた由。(それでもとても広い)その他、帰宅後調べた事も含めて。
 応仁の乱後、代々吉田神社の祀職を務めていた吉田兼倶が吉田神社を神道の総本山としての基礎を固めた。
宮司さんもおしゃっておりましたが、吉田兼倶という人は政治力のある、宗教家らしくない人らしい。
 そしてさらに兼倶は室町幕府八代将軍・足利義政の側室である日野富子らの庇護を得て「吉田神道」を布教、名応四年(1495)には寛徳三年(1046)以来神祇官の長である神祇伯を世襲してきた白川王家に対抗して「神祇官領長上」を自称するようになる。そして、それを持ち前の政治的手腕を使って室町幕府に承認させ、ここに神道の家元としての吉田家の地位を確立させた。
 以来、全国の大多数の神社は吉田家の支配下に入り、神職は吉田家の免許によって任命されるようになった。
 これが明治政府の国家神道にはそぐわなかったのであろう。相当弾圧を受けたらしい事が、宮司さんの言葉の端々に感じられる。あの時代にはあれで良かったのでしょう、と言われておりましたが、本心はいかに?。

神楽殿

拝殿

本殿

摂社・神楽岡社

大元宮