崇導神社

左京区上高野西明寺山((平成15年1月4日)

上御霊神社でも登場の早良親王を祀った神社
ここも、上高野に元々伊多太神社が在り、都の鬼門にあたりこの地を鎮める必要があったと思われる。その陰鬱とした神域内にはまだ早良親王の怨霊がそこに留まって居るかの様な雰囲気です。

苔むして、太古よりこの地に鎮座しこの神域を守っているが如き狛犬

奈良時代、平城京から平安京に遷都する間、長岡京への遷都が行われた。その際、遷都の責任者である藤原種継が暗殺されるという事件が起こった。その犯人として捕らえられた大伴継人、佐伯高成が、桓武天皇と種継と敵対していた大伴家持と早良親王が共謀して暗殺を図ったのだといったのである。
 この早良親王は桓武天皇の弟にあたる人物である。2人の証言により早良親王は捕らえられ、親王の号を剥奪された上、乙訓寺に幽閉される。しかし、親王は無実を訴え、ハンストに突入。とうとう、淡路へ流される途中、死亡してしまった。親王はそのまま淡路に埋葬された。
 その後、皇太子として安殿(あて)親王が即位したが、病気で倒れたのを皮切りに、桓武天皇のまわりの者が病気になったり、死亡したりと不幸が続いた。これを早良親王の祟りと考えた桓武天皇は早良親王に再び親王の号を与えて祟りを沈めようとしたが、焼け石に水。さらに祟りは激しくなる。長岡京を中心とした近畿一円で、疫病、旱魃、洪水と天災が相次いだのである。これも親王の祟りと考えられ、結局長岡京は10年ほどで廃止され、平安京への遷都が決定したのである。 遷都をしたものの祟りは止まず、相変わらず近親者の不幸や災害は続いた。ついに、桓武天皇は早良親王に崇道天皇の号(これは非常に異例な決定である)を与え、奈良の八島陵に改めて丁寧に葬った。最後には種継暗殺に関わったとされる全ての人の罪を許しまでしている。しかし、桓武天皇は最後まで早良親王の祟りを恐れながら、806年に崩御するのである。  実際に早良親王が真犯人だったのかはわからない。しかし、桓武天皇は非常に祟りを恐れていた。その態度がかえって真相を表しているのかもしれない。
 その崇道天皇こと早良親王を祀ったのが崇道神社である

摂社・伊多太神社

神社名石柱

神社入口

何とも鬱々とした雰囲気の社殿

由緒書きはこちら

(明治34年建立)