白峯神宮

上京区今出川通堀川東入(平成15年1月4日)

明治元年(1868)に明治天皇が、保元の乱で憤死した崇徳天皇を追慕した父孝明天皇の遺志をついで造営された神社。後に僧侶の道鏡と恵美押勝の争いに座していて淡路に流された淳仁天皇も合祀している。
現在では怨霊を鎮める為の神社というよりも、球界関係の参拝者の方が多いのではないでしょうか。

雲景という僧が愛宕山に登ったところ、魔王の集団に会う。雲景は首座に着座している金の鳶を見て、山伏に問うと。「上座なる金の鳶こそ崇徳院にてわらせたまえ。そのそばなる大男こそ、為義入道の八男、八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝、井上皇后、後鳥羽院、後醍醐院、次第の登位を逐って悪魔王の棟梁と成りたまう、やんごとなき賢帝たちよ。同じき大魔王と成って、今ここに集まり天下を乱り候ふべき評定にてあり」とぞ語りける。

保元の乱に敗れた、崇徳院は讃岐でしおらしく写経なぞしていたらしい。そのお経を寺に収めてほしい....と都へ送ると、呪いがかけられているのではないか?と疑われ、拒否された。ここに至り、恨み骨髄に達した崇徳院は自らの血を以って、呪いの言葉を書いた。
「後世のためと書たてまつる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益なり」とて、その後は髪をくしけずらず、爪も切らなかった。「吾ふかき罪におこなわれ、愁鬱浅からず。すみやかにこの功力をもって、かの科を救わんとおもう莫大の行業を、しかしながら三悪逆に投げ込み、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」。

そうです。保元の乱に破れ讃岐国に流された崇徳天皇は本邦第一の大魔王だったのです。そもそも天皇家の権力が平氏、次いで源氏へと移ってしまったのも、崇徳院の呪いが成就したからに他なりません。明治元年、王政復古の戦いを始める前に崇徳院の霊を鎮める必要があったのでしょう。「浜千鳥 あとは都にかよへども 身は松山に 音をのみぞなく」。死後705年目にして、やっと故郷に帰った崇徳院の霊は安住の地を得て、今は安らかに過ごされて居るのでしょうか。

神楽殿

拝殿

私は未だかってこんなにおどろおどろしい神殿狛犬は見た事が有りません。

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境内と社務所

参道

この場所は蹴鞠の家柄「飛鳥井家」のあった所で、境内の末社には蹴鞠の神様である鞠精大明神が祭られていて、サッカー関係者の参拝もみられる。毎年7月7日の例祭(七夕祭)には小野をどり「蹴鞠」が披露されます。

摂社、潜龍社

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