上御霊神社

上京区上御霊竪町(平成15年1月4日)

とても解りやすい,ズバリ怨霊鎮魂の神社。八所御霊(崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣)
しかし、元々は、出雲氏の氏寺として平安遷都以前から当地にあったと伝えられる出雲寺(上出雲寺)の鎮守とされる。
御霊神社というからにはもっとおどろおどろしい陰気な雰囲気の神社を想像していたが、境内は整然として清々しく暗い雰囲気など微塵も感じさせない神社でした。

由緒
御霊神社の名が初めて文献に登場するのは貞観5年で、其の時は六所明神とあって、怨霊神も六柱であった。何故八柱になったかも不明らしい。又八柱の神の名についても定説は無いらしい。しかし、確かなのは、早良親王、井上内親王、他戸親王、文屋宮田麻呂、橘逸勢、位か

早良親王はこの他、藤森神社、崇導神社にも祀られている。桓武天皇が如何に早良親王の怨霊に怯えていたか・・。権謀術数は権力者の倣いとはいえ、あまりに多くの恨みを買ってしまったのであろう。早良親王は、桓武天皇が我が子、安殿親王を皇太子にする為無実の罪を着せて乙訓寺に幽閉、後死亡井上内親王、他戸親王、は山部親王即ち桓武天皇を皇太子にする為、藤原百川の陰謀により殺害。不思議なのは火雷神、であるが、井上内親王の霊を弔うために建立された霊安寺、そこで中世に出来た「霊安寺御霊大明神略縁起」に、早良親王は井上内親王の長子で、他戸親王とは兄弟であり、其の末の弟、即ち井上内親王の第3子が雷神であると。流罪になった井上内親王は流罪地で雷神を生んだ。其れは正に怨霊中の怨霊、其の名のとおり雷であり、後に菅原道真に結びつく伏線となったのではないだろうか。

祭神として祟道天皇(早良天皇)、吉備真備はじめ十三柱の神霊を祀る。
延暦十三(七九四)年、平安京遷都に際し、垣武天皇の勅願により王城守護の神として、平安・奈良時代初期に不運のうちに薨じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。のち明治天皇の御願により祭神五柱が増祀された。
平安時代には御霊信仰(天変地異や疫病流行は怨霊の祟りだとする信仰)が盛んであったが、当社は古来、疫病除の霊社として有名である。本殿は享保一八年に下賜された賢所御殿の遺構を復原したものであり、また当社には神輿・牛車等皇室の御寄付品多数を蔵する。
境内は「御霊の社」といい、応仁元年(一四六七)正月一八日畠山政長と義就の合戦が行われた応仁の大乱の発端となったところである。

入口明神鳥居と楼門

楼門前の異国的な顔立ちの京うちわ狛犬

手水舎

境内の様子

お互いに向き合ってお相撲の仕切りをしている様な京尾付狛犬

立派な神楽殿

拝殿

本殿

本殿前の小さな神殿狛犬

摂社

(天保15年(1844)建立)

(石茂刻 明治28年(1895)建立)